21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

20世紀文学

A.ベスター『虎よ、虎よ!』

「復讐の動機が逆恨みじゃねーか!」というのを、「読書メーター」のコメントで見て激しく同意してしまった。これだけアイデア大盛り、展開もすさまじいスピード感なのに、主人公にいまひとつ感情移入できないところが若干のマイナスポイントか。あと、送信…

W.フォークナー『響きと怒り』 一九一〇年六月二日

なぜなら彼が思い出すことができるのは姉の記憶ではなく、姉を失った記憶であり、日の明かりは眠りにつくときと同じ明るい模様だったし、草地は以前よりも売られてからのほうが彼にとってずっとよかったからだ。(付録―コンプソン一族) 『響きと怒り』のふ…

大庭みな子『むかし女がいた』 1

「もちろん、わたしにもさまざまな空想をする自由だけはあるわけだから、そのことだけはこの髪の持主に言っておいて下さい。たとえば、鎌首を持ち上げる蛇の頸に鋲を打って、ミイラにするとか――」(4) 母は死ぬまでの一箇月間、ベッドの横に大庭みな子さん…

K.イシグロ『充たされざる者』

だけどあとどれだけ、こんなふうに人のためにしてあげられるっていうの? あたしたちにとっては、つまりあたしとあなたとボリスにとっては、あっという間に時間が過ぎていくのよ。あなたが気づきもしないうちに、ボリスは大人になってるでしょう。あなたにこ…

S.レム『ソラリス』 「会話」

「脳電図は完全な記録だ。無意識のプロセスもすべて含まれる。もしも彼女に消えてほしいと思っていたなら、彼女は死んでいたのだろうか。(263ページ) ひと月ほども前に、「この項続く」と書いた以上、続かないといけないような気がする。「SFは責任感が強…

S.レム『ソラリス』 「ソラリス学者たち」

――自分が相手にしているのは、確かに知的な、ひょっとしたら天才的な構築物の断片なのかもしれないが、そこには狂気すれすれの、手のつけられない愚かさの産物が支離滅裂に混ざっている。そのため、「ヨガ行者の海」という概念に対するアンチテーゼとして、…

G.オーウェル『一九八四年』 第三部

しかしオブライエンはすぐ側に立っていた。頬にはまだ、金網の冷たい感触が残っている。(第三部5) 人間にとっていちばん恐ろしい拷問とは、徐々に、しかし否定しようのない確からしさをもって、自分の無力を実感することではないのか。たとえば受験だとか…

G.オーウェル『一九八四年』 第二部

「誰に習ったんだ?」彼は言った。 「祖父よ。わたしが小さかった頃、よく歌ってくれたわ。蒸発させられたの、わたしが八つのとき――とにかく姿を消したわけ。レモンって何だったのかしら」彼女は脈絡のないことを付け加えた。「オレンジは見たことがあるの。…

G.オーウェル『一九八四年』 第一部

寡頭政治の本質は、父から息子への継承にあるのではなく、生者が死者に課すある種の世界観、ある種の生き方を持続させることにあるのだ。(第二部9) いま、私が働いている支社には日本人が私しかいないのだが、ロシア人たちはずるいもので、本社や他の支社…

古井由吉『杳子・妻隠』 「杳子」

「あなたは健康な人だから、健康な暮らしの凄さが、ほんとうにはわからないのよ」(八) むかし、やしきたかじんが、あるタレントの浮気を評して、「あれは病気やないねん、癖やねん。癖やから一生なおれへん」と言っていたが、この小説が書いているのは要は…

古井由吉『杳子・妻隠』 「妻隠」

なんだか魂が、というより軀の感じが軀からひろがり出て、庭いっぱいになって、つらくなって、それからすうっと縮まって軀の中にもどってくる。おもての物音をつつんで、すうっと濃くなって入ってくる。そのたびに金槌の音だとか、男たちのだみ声だとかが、…

R.ムージル『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』 「静かなヴェロニカの誘惑」

ちょうど音楽の感動が、まだ耳には聞こえぬうちに、遠くで厚く閉じた垂れ幕の中に、思い定かならぬ襞を畳んで、すでに浮かびだすように。おそらく、この二つの声はやがて互いに駆け寄りひとつになり、その病いと虚弱を去って、明快な、白日のように確かな、…

R.ムージル『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』 「愛の完成」

いかにも冷たい、いかにも静かな一瞬が生じ、その中で彼女は自分自身の存在を、巨大な岩壁のどこかで立った、かすかな、定かならぬ物音と聞いた。それから突然の沈黙によって、彼女は気づいた、いかにひそやかに自分がいま滴(したた)り落ちたかを、それに…

古井由吉『槿』 22

「いつのことですか、どこで」 「ほうら、いつ、どこで、とおたずねになる。そう自分からたずねなくてはならない女の辱(はじ)は、おわかりでしょう。知ってるはずだと言うんです」(449‐450ページ) 何故だかよく分からないが、『槿』の最後の3章を読んで…

古井由吉『槿』 4

都内の地図を杉尾は浮かべた。新しい関係の始まりそうな時の習い性である。若い頃からそうだった。女のこともあり、仕事の関係のこともあった。 生まれ育って今も暮らすこの都会の地理について、杉尾は日付の二十年も遅れた概念図をまだ頭の中に、投げやりに…

古井由吉『木犀の日』 「木犀の日」

木犀の香がまたふくらんで、どんよりと曇りながら空けていく朝の空を思った。やがて立ちあがり出仕度を始めた。(211ページ) もともと出不精なので、旅行というのはそんなに好きではなかったが、最近、知らない町をおとずれて、頭の中にわずかな土地勘がで…

古井由吉『木犀の日』 「椋鳥」

「いっそあたしと寝ていたらどうなの。泰子さんが大事な人に抱かれて逝くあいだ」(44ページ) モチーフに囚われて書く、というのは、作家性の一種の狂気を孕んだ部分なのだと思う。ひとつの風景や、物象に、必要以上の意味あいを持たせていき、ひとによって…

古井由吉『木犀の日』 「眉雨」

いや、むしろ眉だ。目はひたすら内へ澄んで、眉にほのかな、表情がある。何事か、忌まわしい行為を待っている。憎しみながら促している。女人の眉だ。そのさらにおもむろな翳りのすすみにつれて、太い雲が苦しんで、襞の奥から熱いものを滲ませる。そのうち…

M.ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』第Ⅰ部あらすじ

【1】1「見知らぬ男とは口をきくべからず」から、3「第七の証明」まで「よく覚えておいてください、イエスは存在していたのです」 ある異様に暑い春の日、無神論者ベルリオーズと詩人イワンの前に現れた外国人ヴォラントは、外国人にしては完璧なロシア語を…

M.ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』 4「追跡」

いくらベズドームヌイが混乱していたとはいえ、それでもやはり、この追跡の超自然的な速度には驚かざるをえなかった。二キータ門をあとにして二十秒と経たぬうちに、すでにベズドームヌイはアルバート広場のまばゆい明かりに目をくらまされていた。さらに何…

M.ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』 2「ポンティウス・ピラト」

そこで彼は、沈黙している町の上に《R》の音を転がすようにして叫んだ。 「バラバ!」 この瞬間、すさまじい音響とともに太陽が頭上で炸裂し、耳に炎を流しこんだようにピラトには思われた。その炎につつまれて、咆哮、金切声、呻き、哄笑、口笛が荒れ狂った…

E.ザミャーチン『われら』 手記29

ひょっとすると、この私まで御自分の創造物だと思ってらっしゃるんじゃないかしら。光栄ね……(「手記2」) 5年ほど前のフジテレビの深夜番組に「ワールドダウンタウン」というのがあって、これは今まで見た中で1,2を争うくらい好きなお笑い番組なのだが、…

E.ザミャーチン『われら』 手記11

この束縛をあこがれる心こそ、いいかね、いわゆる世界苦というやつなのさ。数十世紀にわたる世界苦だ! そしてわれわれが久方ぶりに幸福を取り戻すすべをふたたび悟った……いや、この先を聴いてくれ、この先を! 古代の神とわれわれとは今や対等なんだよ。(18…

J.Eugenides "the virgin suicides"

There had never been a funeral in our town before, at least not during our lifetimes.(two) ソフィア・コッポラの映画で有名な「ヴァージン・スーサイズ」は不思議な小説である。第二次世界大戦後、だれも死んだことがないというほど小さな町で、美人で…

M.クンデラ『無知』 第26章

というのも、祖国という概念そのものが、この言葉の高貴で感情的な意味では、私たちが他の国、他の国々、他の諸言語に愛着を覚えるにはあまりにもわずかの時間しかあたえてくれない、人生の相対的な短さに結びついているからである。(第34章) 『無知』の…

M.クンデラ『無知』 第39章

だが未来、それは作曲家たちの亡骸が枯葉と、もぎ取られた枝のあいだに漂っていた大河、音の洪水だった。ある日、荒れ狂う波のうえで揺すられたシェーンベルクの死体がストラヴィンスキーの死体にぶつかり、遅すぎた恥ずべき和解をしながら、ふたりとも虚無…

M.クンデラ『無知』 第3章

記憶がうまく機能しうるためには不断の訓練が必要であることに気づくなら、ひとはそんな奇妙な矛盾も理解できる。友人同士の会話のなかで何度も何度も言及されなければ、想い出は消え去ってしまう。(第九章) 思えばミラン・クンデラを一生懸命読んでいたの…

村上春樹『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』 「ゼルダ・フィッツジェラルドの短い伝記」

彼女は鋼鉄とガラスとコンクリートの集合物を上り、天井高く音の響くドームの下を歩いてくぐり、そしてニューヨークの街に出た。ホテルに着く前に彼女はもうその街の一部になってしまった。(「自立する娘」) 非常にありきたりな議論ではあるのだが、人びと…

古井由吉『山躁賦』 「鯖穢れる道に」

なにかいいことがありましたか、と宿の主人にたずねられて苦笑させられた。言われるとなにやら肌が穢(な)れて臭(にお)うような気おくれがした。旅行も四日目になればこんなものだ。勝手に遊んでいれば心身がおのずからぐったりと、たがいに馴れあう。(1…

J.コルタサル『悪魔の涎・追い求める男』 「パリにいる若い女性に宛てた手紙」

夢だということは自分でもよく分かっていた。ただ、あの匂いだけがなじみのない、なにか異質な、夢の中の遊戯と関わりのないものに思えて、彼をひどく苦しめた。(「夜、あおむけにされて」) いささか暴走気味だということは自覚しながら、書けるときに全部…