21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『槿』 22

「いつのことですか、どこで」
「ほうら、いつ、どこで、とおたずねになる。そう自分からたずねなくてはならない女の辱(はじ)は、おわかりでしょう。知ってるはずだと言うんです」
(449‐450ページ)

 何故だかよく分からないが、『槿』の最後の3章を読んでいたら、これは漱石の『こころ』なのではないか、という気がしてきた。そもそも古井由吉の小説なのに、あたかも「俺は自分の過去を清算しに行くぜ」という冒険小説的な、「解決篇」がこの3章なのである。しかもこの解決篇がとてつもなくよくできている。
 萱島國子は、高校生のころ、兄の同級生である杉尾に犯された、という妄想にとり憑かれている。(彼女の家の門のところで彼女を抱きしめてキスをした、という程度の事実はあるらしい)。一方、彼女に片想いし、ストーカーっぽい行為を行っていた石山は、のちに自殺する彼女の兄に殴られ、首を絞められている。現在、癌の疑いで入院し、その疑いが晴れてからも、誰にとも知れない罪の感覚に囚われてしまった石山は、またしても國子にストーカー電話をかけている。また、杉尾のほんものの愛人である伊子は、もとよりの知り合いであった國子の頼みで、杉尾に國子のことを認めさせる手引きをする。杉尾がこの三人との関係を一気に解決する決意をして出かけるのが、この3章の発端である。
 もとより、登場人物たちの時間軸は狂ってしまっているし、せんだっても触れたように、縁なり土地勘なりが上書きされるなかで、かれらの「自身」は分裂した状態に陥っているから、解決などあろうはずもない。でも、杉尾は解決のために出かけるし、最後には、なんとなく解決されたような感じになるのである。この部分については松浦寿輝の解説がよく書いている。

『槿』以後の古井は、何とかして生に目盛りを刻み、時間軸上の遠近法を明確に定め、それによって正気の側にとどまろうと努力し続ける杉尾から、「いつ」と「どこ」とを錯乱しつづける病者石山の側へと、視点の重心をシフトさせていったとでもいったことになろうか。時間の外に出てしまった女たちの異界の淵へとむしろ無抵抗にずり落ちてゆく途を、戦略的に選択したとでも言おうか。(解説 「間」を描いた「本格小説」)

『木犀の日』の解説にも、似たようなこと、いや、あるいは真逆のことが書かれていたが、どちらにせよ女たちの狂気と、「他人事感」に留まろうとする男に迫る別種の狂気のはなしであることは違いない。だが、ここで男(石山)の側にももうひとつ問答無用の狂気が訪れていることが、ひょっとしたら『こころ』を連想させる由縁かも知れない。松浦寿輝が指摘しているように、杉尾が「他人事感」を保ちながら正気にとどまろうと努力しているのに対して、石山には完全な狂気が訪れている。つまりこれが、私には「先生」とKの関係に見えるのだ。
 「日本文学における他人事感」って、ひょっとしたら議論の種になるかもしれない。

「来てくださらなければ、寄ってきた人の言いなりになりますので、想っていてください」(「10」)