21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

大庭みな子『むかし女がいた』 1

「もちろん、わたしにもさまざまな空想をする自由だけはあるわけだから、そのことだけはこの髪の持主に言っておいて下さい。たとえば、鎌首を持ち上げる蛇の頸に鋲を打って、ミイラにするとか――」(4)

 母は死ぬまでの一箇月間、ベッドの横に大庭みな子さんの作品を積み上げて、それを読んで暮らした。縋りつくように、と表現すれば感傷的に過ぎることになるが、癌で死期を悟っているであろう人、からだも痩せ衰えて、心身ともに根気の続くはずのない人が、これほどのスピードで本を読めるものだろうか? と思わせる読み方だった。そのことは私にとても不思議だった。埴谷雄高高橋和巳ドストエフスキーなどについては、むかしそういった高踏な本を読み暮らしていたことを、むしろ自慢げに、わかるはずもない中学生の息子に語っていた人であり、専業主婦となってからは軽めのミステリばかりを読んでいた人であったのに。大庭みな子、という作家については、ひとり本棚に隠し置いていたのだ。
 そういった前景のゆえに、大庭みな子の作品を手に取るのは、ちょっとだけ憚られた。それが一種の聖域化していたといえば、これまた感傷的に過ぎる。十三回忌を一箇月後にひかえて、やっと手に取る気になった、というのも、また場面を盛り上げすぎなのであって、実際には成田空港の本屋でモスクワにもちかえる本を物色していたとき、たまたま新潮文庫の背表紙が目に付き、このところ私もかなりのスピードで本を読んでいたので、とぼしくなった在庫の中から、これもまた、たまたま手に取ったというだけだ。
 さて、冷静になって『むかし女がいた』という本の感想を記すなら、ひとつの段落のなかに、収めきれるだけの感覚をつめこんだ豊潤さを感じる、1のような名短篇もあれば、たんによくできたショートショートのような文章もある。これらの詩文が集まって、ある種の戦後史を構成しているかのように思えなくもない。16−18の断章は血縁や地縁が、日本風の泥臭くではなく、フォークナーばりにガツリと実感を持って描かれていて美しい。まさに「読むべき短篇集」とでもすればよいのだが、心の片すみにひっかかる「ちぐはぐな感じ」を、いまのところなんとも名状できないのが実態である。
 もういちど、1のこと。なんとも生々しく、少女の女性が描かれる戦争の日の春の物語だが、やはりこの短篇を下ざさえしているのは、鮮やかな色のイメージだと思う。麦穂の黄色、爆撃機の銀色、そして爆撃機の落とす「糞」の黒。現実はどちらかというと、くすんだ色にかこまれてしまっているのだが、少女がよむツルゲーネフの「あいびき」の黄金色、白樺、そして青年が落とす赤い唐草模様の布表紙がその現実とまじわるとき、私のような浅薄な読者にも、現実の麦が金色に染まる光景が見えてしまうのだ。

彼女は耳を澄まし、厚い倉の壁に耳を当て、黒猫のなき声を聞き、どきどきいう心臓の音をお祖母さんの衣裳の下で確かめながら、そういう本を読んでいた。そういう本を書いた人たちの子孫が自分たちの国に爆弾の雨を降らせている事実が少女の中でうまく結びつかなかった。(14)

(『むかし女がいた』 新潮文庫