21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

G.オーウェル『一九八四年』 第一部

寡頭政治の本質は、父から息子への継承にあるのではなく、生者が死者に課すある種の世界観、ある種の生き方を持続させることにあるのだ。(第二部9)

 いま、私が働いている支社には日本人が私しかいないのだが、ロシア人たちはずるいもので、本社や他の支社の日本人に、多少言いにくいクレームをつけるときには、「日本語で話したほうがいいから」と言って、私に押しつけてくることが多い。あるとき、ロシア人の管理職にせかされながら電話をかけると誰も出ず、どちらかというとほっとして、「出ないよ」、と彼のほうを振り向いたら、「きっとピチミヌートカヤ・ニーナベスチだな」と言った。
 「何だそれ?」とたずね返すと、「オーウェルの『一九八四年』を読んだことはない? あそこで、毎朝敵の姿をビデオで見て、憎悪を深める、というのがあるだろう。だから、"5 minutes hate"だよ」と切り返された。思わず笑ってしまい、嫌な仕事を押しつけられた憎悪もそれこそ吹き飛んだのだが、実際には「二分間憎悪」の間違いだったようだ。
 そんなわけで、「二分間憎悪」のシーンも印象的な『一九八四年』を手に取ることになったのだが、きわめて面白い。登場人物たちの行く末が気になり、ページをめくる手が止められなくなる、という点で、きわめて20世紀的でもある。
 今日の時点では、ロシア文学のアンチ・ユートピア小説との比較を記すにとどめよう。やはり印象的なのは、「2+2=4と言える自由」というものいいである。むろん、ドストエフスキーの『地下室の手記』においては、「2×2=4」というのは、社会主義の(かならずしも社会主義でなくてもいいが、科学文明が極度に発達した)理想社会の息苦しさを示す公式だったはずだ。また、ザミャーチンの『われら』においても、完全に統制された社会は「効率性」を規範としているが、『一九八四年』の世界は過去が常に書き換えられる、という不合理性の上に成立しながら、その不合理に気がついている住民たちが、それに気づかないふりをしている、という不合理の上塗りがなされている。「不合理ゆえに我信ず」などと言えない状況なのである。
 ザミャーチンドストエフスキーの作品が、ナチススターリン以前に書かれている、という事実も影響しているだろうが、なんとなくいまの私には、これをイギリス文学の伝統に帰したい気持ちがある。つまり、過去は書き換えうる、ということに自覚的であると同時に、過去の記述にきわめて重きを置くものとして。

そして記憶がおぼつかなくなり、文字記録が偽造されるとき――それが現実のものとなったとき、人間の生活条件はよくなってきているという党の主張を受け容れるしかなくなる。その真偽を確かめるために参照すべき基準が存在しないし、二度と存在する可能性すらないのだろう。(第一部8)