21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

R.ムージル『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』 「愛の完成」

いかにも冷たい、いかにも静かな一瞬が生じ、その中で彼女は自分自身の存在を、巨大な岩壁のどこかで立った、かすかな、定かならぬ物音と聞いた。それから突然の沈黙によって、彼女は気づいた、いかにひそやかに自分がいま滴(したた)り落ちたかを、それにひきかえ、いかに巨大に、むごくも忘れられたさまざまな物音に満ちて、虚無の岩の額(ひたい)がそそり立つかを。(33ページ)

この小説は基本的には笑って読むべきものだと思う。すくなくともチェーホフの戯曲が「喜劇」である程度には笑い話なのであって、とくにこの小説の最後の一行を読むとそれを確信する。
 女主人公のクラウディネは世界を流れているものと感じていて、現実、あるいは自我感がそこに立ちあらわれるとき、その流れはなにかしら断絶する。偶然の出来事にみちびかれて、この断絶が「過去」となるとき、別のものでもありえたかもしれない、かつての自分は、深淵の中にうずくまって色を失う。クラウディネは、世界の流れが切り裂かれてそこにほの見える現実を無視し、深淵と深淵のあいだのみを渡り歩きながら、夫との愛の完成を遂げようとあがいているのだ。つまり、単純化して言うなら、すべての偶然や運命から解き放たれ、人生のリセットボタンを何度連打しようと、夫のところへたどり着く、というショートカットを作ろうとして。
 これは、ある種SFめいた笑い話なのだと思う。この世界では、時間軸もある種可視化されていて、クラウディネはすべての過去と、その因果を身にまといながら歩いている。しかしながら三次元である「現実」においては、因果が目に見えない、という矛盾があり、クラウディネはこの矛盾をつこうと一生懸命なのだ。

ところがある日、これらのものがふっと歩みをとめ、不可解にも固く静まりかえり、絆を解かれ、なにやらよそよそしい、頑固な感じにつつまれて立つことがある。そして人は自身をふりかえると、それらのもののそばに、一人の見も知らない人間が立っている。そのとき、人はひとつの過去をもつのだ。しかし過去とはなんだろう、とクラウディネは自問し、それきり、いったい何が変わったのやら、わからなくなった。(60ページ)

(『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』 古井由吉訳 岩波文庫