21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

村上春樹『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』 「ゼルダ・フィッツジェラルドの短い伝記」

彼女は鋼鉄とガラスとコンクリートの集合物を上り、天井高く音の響くドームの下を歩いてくぐり、そしてニューヨークの街に出た。ホテルに着く前に彼女はもうその街の一部になってしまった。(「自立する娘」)

 非常にありきたりな議論ではあるのだが、人びとは文学になにを求めるのかと言うとき、それは人間としての生き方の最先端、よく言えば同時代のもっともカッコいい生き方を、悪く言えば現実社会ではできないようなムチャクチャを、求めていると言っても過言ではないと思う。これまたありきたりきわまりない表現ではあるのだが、スコットとゼルダフィッツジェラルド夫妻は、ジャズ・エイジの象徴として、作品のみならず現実においてもその役割を演じてしまったのだ。
 村上春樹のこの文章は、ゼルダについて、その美しさ、ヴァイタリティー、そして精神異常について過不足なく書きあらわしている。問題はこの文章自体が20年以上もむかしに書かれていることだ。つまり、「アラバマジョージア二州にわたって並ぶものなき」ゼルダの美しさは、1980年代の終わりにおいてすらすこし違和感をもって捉えられており、そのころちょうど村上春樹が作品の題材として描いて、加賀乙彦に怒られたりしていた精神異常は21世紀の現在、よりありきたりな(そう言って悪ければ、身近な)ものとなり、ぎゃくに20世紀はじめのヴァイタリティーはこの時代においてより近づき難いものになっている。
 つまりは、この文章を読むときに感じるすれちがいの感覚が、20世紀のころよりさらにややこしく行ったり来たりしている。文学者がヒーロー、あるいはセレブである時代はとうに過ぎ去ってしまったのだけれど、その一方で、あまりに遠いがゆえにかえって憧憬の対象となり、しかしながらいったい彼らが何故そんな生き方をし、何故そんなことに思い悩んでいたのかは、まったく分からなくなっている、という感覚である。
それは、依然として悲しいのだけれど、悲しいがゆえに、この物語はいまだ価値を失っていないと思える。それは私の思い違いだろうか?

彼女のこのような生活感覚、あるいは職業感覚の非現実性を今日の基準から批判することはたやすいけれど、一九二〇年代という時点に立ってみれば、ゼルダのこの非現実性はそれが非現実であるがゆえにかえって新鮮な価値を獲得できたということになるのではないかという気がする。(149ページ)

(『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』 中公文庫)