21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『槿』 4

 都内の地図を杉尾は浮かべた。新しい関係の始まりそうな時の習い性である。若い頃からそうだった。女のこともあり、仕事の関係のこともあった。
 生まれ育って今も暮らすこの都会の地理について、杉尾は日付の二十年も遅れた概念図をまだ頭の中に、投げやりに皺苦茶に突っこんだままでいた。(中略)
 土地だの街だの地域だの言っても所詮この都会では人の流れの河床にすぎず、三尺流れれば紛れる。とそういう気楽さは日頃頼みとして暮らすところだが、いざ一人に立ちかえると、こだわりの制御がはたらいた。とくに、前と同じ土地というのは忌み嫌った。
(78-79ページ)

古井由吉の作品のなかで、いちばん魅惑的なのは肉体の感覚の確かさ、というよりは、それが不確かであることを書いた筆致の確かさである。たとえばある夏の暑い日に、暑さに頭が朦朧としている、というよりは熱気の中につつまれて、自分の身体が違和感を訴えるときのその感覚を、たしかに描き出してくれることだ。
 ただし、「古井由吉千本ノック」を宣言し、10冊くらいは続けて著作を読んでやろう、と思っていたのに、この『槿』(あさがお)で早くも立ち止まった。どうにも感覚が多方面へ行き過ぎるのだ。主人公の杉尾が、献血で知り合った女、死んだ友人の妹、なじみの小料理屋の女将など、いろんな女性と関係を持つので(かならずしも肉体関係ではない)、しょうがないと言えばしょうがないが、古井氏が得意とする連作短篇であれば、さまざまな人のエピソードのなかでいずれ束ねられる感覚が、ひとりの主人公を持っているだけに、逆にどうしようもなくばらばらになっていく。
 ただし、それが作者の書きたかった部分ではあるようで、この「4」では、例の鳥の声とともに、主人公の自身がばらばらになっていく様が描かれている。

もともと、人はそうそう自身と重なりあって生きているものでもない。さまざまな方角へ遠ざかろうとする自分を、鵜匠みたいに、綱をもつれさせぬよう、引くばかりではなく弛めるときには気長に弛めてひとつに束ねまた束ね、何知らぬ顔で歳を稼ぐ。自身ども、と複数で呼びたいぐらいのものだ。(65ページ)

 さて、「自身」と書いて、「我」などと無理やりに書かないのは美しいところだが、自らを束ねる鵜匠のようなこの男は、なぜ東京の地図を思い浮かべるのだろう? しかもその地図は二十年の時代遅れであるらしい。杉尾は四十のはじめのようだから、おそらくは学生のころの東京の地図である。もちろんこれは女のところへ行くための、私鉄の路線図ではあるまい。「木犀の日」でみたような、地形はおろか、身体感覚までもそなえた概念図であるはずだ。つまり、あらたな関係、すなわち縁、つまり土地勘がうまれるべき場所のことを考えているのである。
 縁のある場所に、もう一度関係を重ねれば、土地勘は上書きされて、自身はさらに分裂していく。この章は、そういったことを書いているのではないか。

悟りではない。端的に自分自身の姿が、横顔がまざまざと見える。厠から大事のありげな目つきをして出てくる。つぎに何を始めるのか、どこへ行くつもりか、ほんとうのところ心が知れない。(65ページ)

(『槿』 講談社文芸文庫