21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

E.ザミャーチン『われら』 手記11

この束縛をあこがれる心こそ、いいかね、いわゆる世界苦というやつなのさ。数十世紀にわたる世界苦だ! そしてわれわれが久方ぶりに幸福を取り戻すすべをふたたび悟った……いや、この先を聴いてくれ、この先を! 古代の神とわれわれとは今や対等なんだよ。(187ページ)

 むろん、20世紀のはじめというのは、小説というものがその可能性の限りを尽くして暴れまわった時代であるので、「20世紀小説の典型」などという言い方はできないにしても、ザミャーチンの『われら』は、20世紀の物語の典型、ということはできるのではないか。
 ひとびとの思想はおろか、行動まで支配してしまった全体主義国家「単一国」。そこでは「国家要員」たちが、すべての自由を奪われ(あるいは自ら放棄し)、「時間律令版」の通りに規則正しい生活を送っている。宇宙船「積分号」建造計画にかかわる数学者のD503号は、ファム・ファタル、I330号の魅力に惹かれていき、「単一国」を支配する「慈愛の人」への反逆計画にかかわることになる……10数年ぶりにこの小説を読み返してみて、思わず、「『イキガミ』か!」とツッコミを入れそうになったが、どちらかというと『イキガミ』の方が、『われら』というマザーテープのダビングの末である、と言えるくらい、20世紀を通じてこのプロットは、SFはもちろんスパイ小説や映画に汎用されてきた。要は、1920年代にザミャーチンが描いた全体主義国家が現実のものになってしまい、だんだんリアルな物語に降りてきた、ということだろうか。
 さて、話は変わるが、ザミャーチンはこの小説のなかで、あからさまにドストエフスキーを引用している。I330号に誘惑され、全体主義社会に適応できなくなった語り手の「病」は、21世紀アメリカのように「セックス中毒」とは呼ばれず、「想像力」あるいは「魂」と呼ばれる。すなわち「意識=病(すべての意識は病)」である。また、『地下室の手記』の重要なテーマである、「壁」「鼠」「対数表」もほぼそのまま登場する。すなわち、これはどういうことか。
 ドストエフスキーの「地下室人」が語っていたのは、いかに数学的に計算された理想の社会(文明)が出来上がったとしても、人間として生まれた「原罪=意識」を背負ってる以上は、俺は病気である、病気でなにがわるいねん、ということだった。つまり、地下室人に友達はいなかったが、かれはキリスト教をいちおうの社会通念とする世界において、そんなにおかしなことは言っていなかった。しかし、ザミャーチンソ連ができてから、つまりはキリスト教という社会通念が通用しなくなってから、地下室人のモチーフを未来社会に代入しているのである。おそらくは、自らも信仰を持たないまま。
 後ろだてを持たずに発される毒はとても強烈だ。そして、『われら』という極彩色の毒は、20世紀の現実となってしまった。

愛しているのは、それを服従させることができないから。(手記13) 

(『われら』 小笠原豊樹訳 『集英社ギャラリー 世界の文学15 ロシアⅢ』所収
なお、岩波文庫から川端香男里訳が刊行されている)