21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

M.クンデラ『無知』 第39章

だが未来、それは作曲家たちの亡骸が枯葉と、もぎ取られた枝のあいだに漂っていた大河、音の洪水だった。ある日、荒れ狂う波のうえで揺すられたシェーンベルクの死体がストラヴィンスキーの死体にぶつかり、遅すぎた恥ずべき和解をしながら、ふたりとも虚無のほうに(絶対的な喧騒になった音楽という虚無のほうに)旅をつづけていた。(156〜157ページ)

 たとえばウォークマンの出現が(iPod,iPhone,iPadの時代にウォークマンでもないが……)、文学の持続力を低下させたか、と問うとき、そういえば日本の悲惨な現代文学以外で、携帯音楽プレーヤーが登場する作品はあったかしらん、と思えてくる。フィリップ・ソレルスの『神秘のモーツァルト』に、夏の暑い日にウォークマンモーツァルトを聴く場面があったような気がして、パラパラめくってみたのだが、それはウォークマンではなくカーラジオだった。乗り物の音楽ならば村上春樹の得意とするところだ。
 町の喧騒やBGMというのは、まともな文学者ならば誰もが嫌がるところだが、ずっと日本で暮らしていればそんな感覚すら絶えてしまう。(と、いうより、はじめから持ちあわせがない)。私などに至れば、単純に音がないとさびしいからTVをつけてしまうくちである。
 39章から40章にかけて、「騒音となった音楽」「音楽の汚水」にかこまれてイラっとするイレナの姿が描かれるが、なんとなく、これは親和的である。たとえばこの場面をiPodを聞きながら読んでいたとしてもひきこまれてしまう。それは、排水溝に流れてゆく作曲家の死体すらイメージしてしまうクンデラアイロニー、あるいは、あきらめの感覚がうまく作用している一例だろう。街には音があって、すでにそれは自然なことであり、人間であればイラっともするのだ。

街路でチェコ人たちに取り囲まれていると、昔の気楽さの吐息に愛撫され、しばし幸福になった。それから、家にもどると、無口な外国人になったのだ。(第26章)