21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

G.オーウェル『一九八四年』 第三部

しかしオブライエンはすぐ側に立っていた。頬にはまだ、金網の冷たい感触が残っている。(第三部5)

人間にとっていちばん恐ろしい拷問とは、徐々に、しかし否定しようのない確からしさをもって、自分の無力を実感することではないのか。たとえば受験だとか就職活動だとか、その過程自体はたいしたことのない競争が人の心を歪めうるのもそのためであるし、分不相応な仕事を与えられれば精神的に不安定にもなるのである。(あ、俺?)。
 拷問に満ちた『一九八四年』の第三部に書かれているのは、たしかにそういう性質の拷問であるし、抵抗すべからざる深淵までその拷問が降りていくのが、この小説の恐ろしさでもある。たとえば受験に失敗したなら、「それでも俺にはゲージツが……」というたぐいのエクスキューズを人はいくらでも思いつくけれど、この小説においては限りない愛の対象としてのオブライエンがそれをすべて否定する。オブライエンは主人公のウィンストンに、世界を変える使命を与えた人間でありながら、同時に彼の存在を否定する拷問者でもあるのだけれど、そのどちらの立ち位置でも主人公の愛を受け容れることはない。つまりは彼に革命家としての使命感を与えた時点においては、すべての残虐行為を約束させることで彼の人間性を否定し、また拷問者としては中途半端で、たしかに「敵」としての役割をまっとうしてもくれない。
 ここで書かれているのが、全体への生贄として個が抹殺される、あるいは独善的な個のために多数が虐げられる、というような単純な話ならば、まだ救いはあるのだけれど、ビック・ブラザーの存在すら怪しいし、「全体」もすでに歪められた空間の中にしか浮かんでいないらしい。ただ単に、無目的に、ウィンストンのアイデンティティだけが否定されるのである。
 こういうことを書くのはあまり好きではないけれど、この寓話はあまりに現代的であるように思う。