21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『木犀の日』 「木犀の日」

木犀の香がまたふくらんで、どんよりと曇りながら空けていく朝の空を思った。やがて立ちあがり出仕度を始めた。(211ページ)

 もともと出不精なので、旅行というのはそんなに好きではなかったが、最近、知らない町をおとずれて、頭の中にわずかな土地勘ができあがるのを楽しいと思うようになった。とはいえ、住んでいるモスクワですら、そんなには知らない。
 さて、古井由吉について、宿題にしていた場所の事を考えるなら、この短篇をおいてないと思う。しかしながら、捉えどころはあまり多くなく、作者の生まれ育った東京の町を、散歩をする作者について巡る、というだけの作品である。ときどき、空襲の記憶や、大学生くらいのときの感覚が挿入されるが、くりかえしのように作者は町が変わってしまったので土地勘はない、ということを強調するので、全体に町の印象は茫洋としたままだ。

思っていたよりもゆるいみすぼらしい坂だと落胆したのは中学生の時だった。生い立った自分の丈を想ったのは大学生の頃だろう。五十なかばで来てみれば、立派な坂だ。(223ページ)

 このように町の記憶は幾重にも重ねられるが、町は視覚的に蘇るわけではなく、むしろ嗅覚、影、光、そして疲労感といったものの記憶が町の上には塗りこめられていく。モチーフとしては、斎場、谷、坂、教会などがあらわれてくる。すべて、生死のあわいを語るものだろう。ここにある谷は、『山躁賦』にあらわれたほどの谷ではないが、しかしそれが谷らしきものである以上、どうやらそれは人を死の世界にさそうものらしい。

教会の前を過ぎて坂路への角を折れ、左へゆるく振れる窪に踏みこむと、物のにおいが、体の内からひろがった。木犀よりも、甘くてつらいにおいだった。(229-230ページ)

 観念的なものいいは、これまた『山躁賦』にもあらわれた「生きているものの方が幽霊になっている」、あるいは「成仏している」というものだけだが、何もないところ、そして、強調されるわけではない記憶によってこそ感得される、生と死の強烈なにおいがこの作品には描かれている。町は、目で見るものではないのかも知れない。