21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

G.オーウェル『一九八四年』 第二部

「誰に習ったんだ?」彼は言った。
「祖父よ。わたしが小さかった頃、よく歌ってくれたわ。蒸発させられたの、わたしが八つのとき――とにかく姿を消したわけ。レモンって何だったのかしら」彼女は脈絡のないことを付け加えた。「オレンジは見たことがあるの。何て言うか、丸くて黄色い果物よね、皮の厚い」
「レモンは覚えている」ウィンストンが言った。「五十年代にはどこにでもあったね。とてもすっぱくて、匂いを嗅いだだけで歯が浮くような感じがしたもんだよ」
(第二部4)

過去を改竄するという、その職業柄なのかも知れないけれど、ウィンストンの視点は低い。つねに廊下を、光と影の交錯する道を、自分の足の潰瘍を、ドアを、人のてのひらを、そして机の上の日記帳を眺めており、だいたい人の目の高さより上に目を向けることがない。この男に望めるのは、せいぜいが古道具屋の二階くらいであり、それも例外中の例外である。また、この小説の中で重要な位置を占める、「歌う主婦」も、この二階の窓から眺め下ろす、というかたちで登場する。
 若い恋人のジュリアと逢うとき、ウィンストンの視点は若干上がり、だいたい木の上でうたう小鳥ぐらいまでは眺められるのだけれど、自然・食物・衣裳・セックスといった感覚の歓びに溺れるジュリアとのデート中でさえ、やはり基本的に彼は下を向いている。
 理由はだいたい二つくらいあるだろう。ひとつにはまず、この物語の世界には空がない。上空を見上げれば存在しているのは、人びとを監視するビック・ブラザーの肖像であり、まさに生活を監視している警察のヘリコプターである。加えて、誰が飛ばしているのか分からないロケット弾が始終飛び交っている。つまり、ロンドンの街は監視空間であるがために、比喩的には「壁」に囲まれ(ザミャーチンの世界のように、現実の壁が存在しないのは特筆すべき点ではあるが)、物理的にも高層建築が立ち並んでいるために、視界がごく限られたものでしかないのだ。
 もうひとつには、ウィンストン・スミス自身が上空を見上げようとしないことが挙げられる。むろん、上記に述べたような上空の不愉快な事情はあれ、かれにとっての生は、過去の中にこそ存在し、過去は空間的には目線より下に位置しているのだ、そのことは、次の場面によくあらわれている。

彼が彼女に対して覚えた神秘的な崇敬の念はどういうわけか、林立する煙突の向こうの果てしない彼方まで広がる淡くて雲一つない空の姿と混じり合っていた。空は誰にとっても同じもの、ユーラシアでも、イースタシアでもここと同じなのだと考えると不思議な気がした。そしてこの空の下で暮らす庶民もまたみんなよく似ているのだ(第二部10)

これはゴールドスタインの「禁書」に感化されたウィンストンが、眼下の「歌う主婦」を賛美しながら漏らす感想である。しかしながら、このとき彼の目線はまったく上空を向いていない。『一九八四年』の世界に空は存在せず、あくまでメタファー的に、彼が希望を託すプロップ(党員以下の地位に置かれた庶民階層)と重ねあわされているだけに過ぎないのである。

「君は形而上的思考に向いていないようだな、ウィンストン」彼は言った。「今の今まで、存在が何を意味するのか、考えたことがなかったわけだ。もっと正確な言い方をしよう、過去は具体的なものとして存在するかね、空間のなかに? 確固としたものでできた場所、世界がどこか――どこでもいい――にあって、過去はそこで今でも生起していると思うかね?」(第三部2)