21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

R.ムージル『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』 「静かなヴェロニカの誘惑」

ちょうど音楽の感動が、まだ耳には聞こえぬうちに、遠くで厚く閉じた垂れ幕の中に、思い定かならぬ襞を畳んで、すでに浮かびだすように。おそらく、この二つの声はやがて互いに駆け寄りひとつになり、その病いと虚弱を去って、明快な、白日のように確かな、まっすぐ立つものへと、なり変わるのではなかろうか。(104ページ)

 せんだって「愛の完成」についての記事を書いた際には、なんとなく入試問題の現代文の問題を解くような、とりあえず筋道をたてて読まねばならない、というような読み方をしてしまったのだが(そのわりにはメチャメチャ書いているが)、一人の人間としてクラウディネの感覚に立ち戻れば、これは案外心地よい気の持ちようかも知れない。つまりは、クラウディネにとって現実などどうでもよい、という意味において。
 それに比べればヴェロニカは幾分まじめで、それだけに、この作品は読みにくい何かを孕んでいる。訳者の古井由吉自身は、おなじく入試問題のようにしっかりと書かれている意味を読み解いたあとで、「しかし作品を通して、いたるところに循環の緊張がひそんで、いまにも環の裂けるのを予感してふるえているように、訳者には思われる」という解説を書いているが、どうにも私には、確実なキーワードである「獣」が感得されない。古井はこの解説において、「神」と呼ばれる神秘の空間、精神性の極地、神との合一を邪魔し、その行く途にたちふさがるものとして、この「獣」を捉えているが、まさにそのように思われながら、どことなくしっくりこないのである。
 ヴェロニカは、どことなく野性的なデメーターに、「神」をもとめるヨハネスが殴られたとき、彼が卑屈めいた表情を浮かべたことに獣を感じる。これを、いわばありがちな「自然」のことと考えれば、「神」を求めるヨハネスの前に立ちふさがるもの=ヨハネス自身、として話は通じる。しかしながら、「それほどまでに自分をなくしたものに、人間ならば、なれるものじゃない、そんなふうになれるのは獣だけ」というとき、ヴェロニカはむしろ獣を求めてはいまいか。そして、ヨハネスに「死んでほしい」と伝えたヴェロニカは、みずからの内にも、そして想念のなかのヨハネスにも獣を見、それゆえにむしろ彼を愛しはじめてはいないか。
 ヴェロニカはおそらく、クラウディネとは別の方法でのヨハネスとの合一を望んでいる。完全に精神世界にあそべるクラウディネよりも、ヴェロニカの愛のほうが悲惨であると思う由縁である。だが、ここで私の理解を妨げるのは、両者が求めるものがやはり「合一」であり、それはわかいヨハネスの言葉尻にあらわれたものとは違うとしても、それでもやはりそれは精神世界の物語なのではないか、という思いだ。ヴェロニカとヨハネスが肉に惑いながら、精神の合一を求めるとき、それでは一体「獣」とはなんなのか、これがいまだに分からない部分だ。

するとあたしにはこの家が、あたしたちのほかには誰もいない世界に見えてきたの。それはどんよりと曇った世界で、その中では何もかもが水に沈められたようにゆがんだ奇妙な姿になってしまうのだわ。(119ページ)