21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

M.ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』 4「追跡」

いくらベズドームヌイが混乱していたとはいえ、それでもやはり、この追跡の超自然的な速度には驚かざるをえなかった。二キータ門をあとにして二十秒と経たぬうちに、すでにベズドームヌイはアルバート広場のまばゆい明かりに目をくらまされていた。さらに何秒かのちには、歩道のでこぼこした暗い横町に出ていて、そこで躓いて転び、膝を強く打った。ふたたび明るい目抜き通りのクロポトキン通り、それから横町、それからオストジェンカ通り、そしてまたうらぶれて汚らしい、明りもほとんどない横町。ベズドームヌイがどうしても必要としていた人間を最終的に見失ってしまったのは、ほかならぬここにおいてであった。(338ページ)

 どうにもビビリなもので、ブルガーコフについて何か書くことにはまだ躊躇があるのだが、それでも顕著な事実として気づくのは、先だって引用した部分も含め、巨匠の「小説」、ポンティウス・ピラトの物語には聴覚的表現が多いのに対して、作者ブルガーコフ描くところの現代の(というか1930年代の)モスクワは、視覚のパノラマだということである。ピラトの物語においては、群集のざわめき、馬蹄の響き、雷鳴などが強調しすぎるほど強調されているが、モスクワを舞台にする物語は、どこか歪んだ空間を視覚的に「見せる」ことを第一義にしている。

それよりも蝶鮫はどうです。銀の鍋に入れた蝶鮫、海老と新鮮なキャビアを添えた蝶鮫の切身は? 小さな鉢に入れた西洋茸のピュレーにあえた鶏卵はいかがです? 鶫の胸肉はお好きじゃありませんか? 松露で味をつけたやつは? ジェノア風の鶉は? 九ルーブル五十コペイカ! それにジャズ・バンド、それに礼儀正しい給仕たち。七月になって、家族全員が別荘に出かけ、あなたは差し迫った原稿の締切りのためにモスクワを離れられないようなときには、テラスの蔓のからまる葡萄の樹の蔭で、純白のテーブルクロスに映る木洩れ日なんかを見ながら若鳥入りのスープなどはいかがです? 覚えていますか、アムロージヴイ?(5「グリボエードフでの事件」344ページ)

一見、上記に引用した部分は、ブロツキーばりの羅列とも言えそうだが、これは「この上ない真実の文章を書いている作者」(343ページ)が、レストラン「グリボエードフ」の近くで聞いたかもしれない会話文から始まり、しかもその発話者とされている「アムロージヴイ」んなる人物が退場してからの地の文である。つまりは作品世界の中にすらいるかどうか分からない人物への、声にならない述懐として記されているわけであるが、にしてはこの文章、やけに視覚的なのだ。レストランに関する述懐でありながら、その味については一切触れられず、料理の見てくれ(食器、つけあわせ)、レストランの内部(ジャズ・バンド、給仕)、さらにはテーブルのロケーションと木洩れ日までが目の前に広げられるのである。
 視覚と聴覚とどちらがより頻繁に嘘を吐くか、といった難しい話題は脇においても、ブルガーコフは意識的にこの作品の中の風景を歪ませて見せている。(なにしろ、モスクワの街自体が魔法にかかっているのだから仕方ないが)。それはひょっとして、あるいは逆説的に、眼という器官が唯一、歪みを歪みとして、幻覚を幻覚として認知できることの裏返しの表現ではないか、とすら思うのだ。

するとすぐさま、舞台の床にはペルシア絨毯が敷きつめられ、緑色がかった光を放って輝く金属音に縁どられたいくつかの巨大な鏡、そして鏡と鏡のあいだにガラス製の陳列棚が出現し、そのなかにはありとあらゆる色彩とデザインをしたパリ仕立ての婦人服があり、それを目にした観客は、驚嘆のあまりため息をもらした。別のところにあった陳列棚には、何百という婦人帽、羽根がついていたり羽根がついていなかったり、留金があったりなかったりといった婦人帽、それに何百という靴、黒や白や黄色、革や繻子やスエードでできた、革紐や宝石つきの靴が現われた。靴のあいだにはケースがあり、そのなかで、香水を入れたクリスタルのガラス壜のきらきら光る刻み目がまばゆく輝きだした。バックスキンやスエードや絹のハンドバッグの山、そのあいだには、堆く積みあげられた鋳金の細長い口紅のケース。(12「黒魔術とその種明かし」)