21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

W.フォークナー『響きと怒り』 一九一〇年六月二日

なぜなら彼が思い出すことができるのは姉の記憶ではなく、姉を失った記憶であり、日の明かりは眠りにつくときと同じ明るい模様だったし、草地は以前よりも売られてからのほうが彼にとってずっとよかったからだ。(付録―コンプソン一族)

 『響きと怒り』のふたつ目の章は、近親相姦を犯したという幻想を持ち、自殺するクエンティン・コンプソンの最期の一日を描いた章であるが、語りの中に過去の記憶が直接流れこんでくる文章の中で、父に贈られた祖父の形見の懐中時計に導かれる「時間」のイメージが大きな役割を果たす。
 と、書いてはみたものの、私にはこの作品の中で、「時間」の果たす役割がよくは分かっていない。もうすこし分かりやすい無垢と、経験のテーマに付随して「時間」は流れていくのだが、ここから読み取れるのは、時間は逆流しない、という単純な事実だけで、幾度も描かれる時計の針の刻む音とそれは無関係なように思われるのだ。
 妹キャディの無垢が失われてしまったこと、彼女が結婚して去っていくこと、じぶんのハーバードの学費を捻出するために、弟ベンジーの愛する草地が売られてしまったこと。クエンティンの自殺の理由として、これら無垢の喪失をあげるとするならば、やはり時間の一回性そのものが恐ろしいのだ、と言うことができるだろうし、もっと印象的な、「創造したのさ 僕の方がお父さんをね」という、幻想のキャディへの独白もこのことを裏付けている。しかしながら、この後ろでずっと響きを続ける時計の秒針のほうが、よほど恐ろしいものに見えるのはなぜだろう? 

そんなふうに考えるのはおまえが純潔(ヴァージン)だからだよ。わかるかい。女というものは決して純潔ではないんだ。純潔というのは否定形の状態で、だから自然に反しているのさ。お前を苦しめているのは自然であって、キャディじゃないんだ。そこで僕が それはただ言葉の上の理屈です というと お父さんは 処女性も同じさと言い そこで僕が お父さんにはわからないんです わかるはずがないんです と言うと お父さんは いや わかるよ。あらゆる悲劇が二番煎じだとわかったとたんに処女性も単なる言葉にすぎないとわかるのさ。(上巻 226-227ページ)

(『響きと怒り』 平石貴樹・新納卓也訳 岩波文庫