21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

M.クンデラ『無知』 第26章

というのも、祖国という概念そのものが、この言葉の高貴で感情的な意味では、私たちが他の国、他の国々、他の諸言語に愛着を覚えるにはあまりにもわずかの時間しかあたえてくれない、人生の相対的な短さに結びついているからである。(第34章)

『無知』のなかではすべてが剥きだしで提示されている。時間論、言語への愛、そしてそれらと緊密に結びついたエロティシズムが、これ以上はないくらいわかりやすく示されるのだ。たとえば言語への愛、そしてエロティシズムについては、これくらいあからさまに書かれた作品は、他に井上ひさし吉里吉里人』くらいしかないほどで、また時間に関しては、クンデラは「パラドクス」というけれど、日常のなかで私たちが感じる感覚を、きわめて明確に書き出してくれている、と感じる。ゆえに、この小説はまちがいなくおもしろい。
 イレナが故郷であるプラハの街中で、大袈裟なぐらい誇張された英語の看板に出遭い、いっぽうではチェコ語の気軽な響きに癒されつつも、母と恋人が家の中で英語を話し、亡命のゆえに自分にとって唯一の言語となっていたフランス語がその地位を失うのを見て、失望する。この美しく描かれた言語のメロドラマに出遭うとき、そのストーリーテリングのうまさに感じ入りつつも、じぶんの中で消化された1989年という題材を得て、クンデラが自己の文学を一定の枠にはめてしまったのではないか、という一抹の不安がよぎる。
 だが、繰り返しを恐れなければ、この作品は圧倒的におもしろい。それはストーリーテリングのうまさによるよりも、私たちの日常に近い感覚が花盛りである、という事実によるかも知れない。

イレナの視線はもう一度向う岸にそそがれた。そして彼女は気づいた、なぎ倒された大木が花盛りなのだ! なぎ倒され、寝かされても、それらの木々は生きていたのだ! と、そのとき突然、スピーカーの音楽がフォルティシモで[きわめて強く]鳴り響いた。その不意の一撃にイレナは耳を押さえ、どっと涙に暮れた。目の前で消え去ってゆく世界のために流す涙。数ヵ月後に死んでいくことになる夫が、彼女の手をとって連れ去った。(第15章)