21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『木犀の日』 「椋鳥」

「いっそあたしと寝ていたらどうなの。泰子さんが大事な人に抱かれて逝くあいだ」(44ページ)

モチーフに囚われて書く、というのは、作家性の一種の狂気を孕んだ部分なのだと思う。ひとつの風景や、物象に、必要以上の意味あいを持たせていき、ひとによってはそれが10年も20年も続くというのは、やはり正気の沙汰であろうはずがない。たとえばこれは小説ではないが、Blankey Jet Cityであれば、「水色の夕焼け」や「あの細く美しいワイヤー」というものが繰り返し描かれて、ワイヤーはともかく、もちろん「水色の夕焼け」が見える感性は尋常な場所にいない。しかしながら、そうして繰り返されるモチーフが、身体感覚として腑に落ちるとき、やはりモチーフというもの、そして創作の強さが心に響く。だから、同じ人の作品を繰り返し読みたい気にさせるし、私にもときどき、「水色の夕焼け」が見えるような気がする。
 さて、古井由吉の自選短篇集であり、文庫本である『木犀の日』には、大杉重男という人が解説を寄せており、1980年の作品であるこの「椋鳥」のメインモチーフが、先にとりあげた十年後の「眉雨」では、「車の往来の音に紛れて」しまうということを書いている。鳥たちの声であれ、車の音であれ、夥しい声が、狂気を誘うものだとすれば、その音は身体の内側からも外側からも、さらに高められている、ということになるだろうか。

冬の暮れ方になるとおびただしい椋鳥の群れが杉谷の住む新興住宅地の上空を飛ぶ。群れごと風に巻きあげられ、はてしもなく押しあげられ、それからあわてふためいて羽撃きながら墜ちかかるかと思うと、たちまちまた風に攫われる。まるで罰でもくらっているみたいな取乱しようじゃないか、悲鳴でも聞こえそうだ、と杉谷は窓越しに見るたびにつぶやく。そして、あの日頭上から威嚇するかのようだった嘴を思出して、とっさに娘の目を掌で覆いそうになった怯えを、また身の内に感じて首をかしげる。冬ごとに同じ印象を訝り、あれから、五年の歳月が過ぎた。(39-40ページ)

 この短い作品のあいだ、鳥たちはこれ見よがしに登場するが、物語そのものもかなりこれ見よがしな話で、妻子のある男、杉谷が、泰子と和子、という二人の女と関係を持つ話である。二人の女はふしぎなことに、昔から同じ男と関係を持ってしまう関連性のなかにあるらしい。その泰子の方が重体で明日の明け方が峠であるというので、和子が杉谷に連絡を取る。そして杉谷は二人の女の狂気を目のあたりにしながら、自分のうちに潜む狂気をも感じさせられる、というのがあらすじだが、ここで、二つのことに気づく。
 ひとつめは杉谷の物語が五年後の回想だということだ。いくら男が同じモチーフの狂気に惧れをなしていたとしても、社会生活が崩壊しないレベルで、昔の女の狂気を回想している、という呑気さは『ノルウェイの森』にも似る。もうひとつは数年後の作品『槿』でも、杉尾という男と、伊子・國子という二人の女が似たような関係に陥る、ということだ。

鳥の声が耳につく季節になった。毎年この頃になると、年中じつは聾唖に近い状態で暮らしているのではないか、と杉尾は自身を疑う。それほどに鳥の声は烈しい。一声ではるばると沈黙を地に張る。その中にあって杉尾はつかのま自身の耳の奥に、透明硬質の栓をされたような、無音の塊を感じる。追いすがって耳を澄ますと、沈黙の手応えはすでに失せて雑音のざわめきだけが残る。(『槿』)

 「椋鳥」という小説は、二年ほど前に関係を持っていた女たちの狂気を、五年後の視点から眺める、という小説である。スキャンダラスな内容を、美しいと言える範囲で描いてはいるのだけれど、「他人事」観はすさまじい。ゆえに、鳥のモチーフは(そして杉なんとかさんを巡る女たちのモチーフも)、作家の中で昇華されないのではないか、と思うのだが、ここまで来ると私の勝手な妄想である。