21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『山躁賦』 「鯖穢れる道に」

なにかいいことがありましたか、と宿の主人にたずねられて苦笑させられた。言われるとなにやら肌が穢(な)れて臭(にお)うような気おくれがした。旅行も四日目になればこんなものだ。勝手に遊んでいれば心身がおのずからぐったりと、たがいに馴れあう。(171ページ)

 通し読みしてから4章ばかり、気になった章をつまみ読みしてみたが、考えれば生臭い章ばかり拾ったように思える。干魚のにおいにはじまった旅も、鯖のうまさを語るに至れば、ずいぶんと体力が回復してきたようにも感じる。干魚の章でも女人のイメージはあったのだけれど、脂ののった鯖に至ればもうすこしエロ話は生々しくなる。なるほどなあ、と思わなくもない。
 実はこの本を読みはじめたころから、熱を出して2日ほど会社を休んでいて、だったらブログなんか書かなければよさそうなものだが、どうしてもしなければいけないメール対応だけしてパソコンを閉じるのもさみしい気がして、思いついたことを書いてみた。いわば熱をいいことにし、勤めを放棄して遊んでいたようなもので、なんとなく、「心身がおのずからぐったりと、たがいに馴れあう」という感覚は分からないでもない。そろそろ、じぶんの妄想の貧困さを怨みながら現実に戻るときかもしれない。

しかし厠というところは、もしも自分に記憶が失せるようなことがあるとすれば、厠で失せるにちがいない。ここには年月もない、場所もない、親も女房も子もない、有縁無縁もない、ひょっとして生者死者もないのかもしれない。扉を閉めて、いとも日常的な、しかめつらしい顔つきで屈みこみ、しばし無念無想になり、それから扉をあけてふらりと、入ったときと別のあんばいの時間の中へ出てしまう、大事な記憶のまぎれたのも知らずに去る、ということは、ありそうなことではないか。(165ページ)