21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

M.クンデラ『無知』 第3章

記憶がうまく機能しうるためには不断の訓練が必要であることに気づくなら、ひとはそんな奇妙な矛盾も理解できる。友人同士の会話のなかで何度も何度も言及されなければ、想い出は消え去ってしまう。(第九章)

 思えばミラン・クンデラを一生懸命読んでいたのは、もう10年以上も昔のことになるのだが、かれは東欧出身の作家で、これ以上ないくらい東欧的なテーマを描いているにもかかわらず、どちらかと言うとスラヴ文学よりはフランス文学にカテゴライズされてしまうことが、当時は不満だったように思う。しかし、もう一度思えば、わずかに哲学じみた若者が性的な活字による興奮を満たすのに最適であったこの作家は、やはりフランス文学の作家だったのかも知れない。そういえばそのころ私がある種の師と仰いでいた人物は、性的興奮を活字によって満たすこと(これと前述の興奮には決定的な違いがあるとはいえ)を「フランツースカヤ・リテラトゥーラ(フランス文学)」と呼んでいたのだから。
 ……と、内容がどうでもいいわりに、クンデラのファンには怒られそうな前置きではじまったが、この小説は細部にはっとさせるような描写を持っているにもかかわらず、クンデラお得意の冒頭のモチーフ出しにおいて圧倒的に出来が悪い。モチーフ出しが圧倒的にうつくしいのは、何といっても『不滅』で、イヤらしいので有名な『存在の耐えられない軽さ』のどことなく厭らしい冒頭も、ここまで失敗していなかっただろう、と思われるのである。
 ノスタルジアと無知の関連性を語った第2章がイマイチ説得力に欠けるのはもとより、ヤン・スカーツェルの詩句とシェーンベルクのエピソードを引用して鮮烈な印象を持つ第3章ですら、冒頭語られるチェコの歴史がどことなくぎこちないことによって、完成度を下げている。そうすると全体的なオデュッセイアのイメージすら安っぽいものに思われてしまうのだ。
 だが、この作家は第一作の長篇、『冗談』に象徴されるように、ぎこちなさを感じさせる小説や、未完成のものを魅力的に見せる特異な性質がある。ゆえに、私はいまだに最初のほうばかり何度か読み直しているのだが、不思議なことに一向に飽きない。

三百年と言ったことによって、スカーツェルは間違っていたのだろうか? もちろん、そうである。あらゆる予見は間違う。それが人間にあたえられている稀な確信のひとつだ。(18ページ)

(『無知』 西永良成訳 集英社