21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

K.イシグロ『充たされざる者』

だけどあとどれだけ、こんなふうに人のためにしてあげられるっていうの? あたしたちにとっては、つまりあたしとあなたとボリスにとっては、あっという間に時間が過ぎていくのよ。あなたが気づきもしないうちに、ボリスは大人になってるでしょう。あなたにこんなことを続けてくれなんていう権利は、誰にもないはずよ。それにこのいろんな人たちは、どうして自分で自分の問題を解決できないの? そのほうが自分のためでしょうに」(3)

 ホルヘ・ルイス・ボルヘスは『続審問』のなかで、ジョン・W・ダンの時間論を要約して、「わたし」の無限後退について書いている。つまり、人が自己(主体A)を認識するためには、その観察主体としての主体Bを必要とし、またその主体Bを観察する主体Cも必要となるだろう、という話だ。ボルヘスはダンにあるていど批判的な言及をしながら、その「永遠」観の魅力を称えているが、ボルヘスの忠実な読者ではない私に気にかかることは、この無限の「わたし」達はそれぞれどの位、見られているほうの「わたし」に関心があるかということだ。
 その多くが一人称で書かれているカズオ・イシグロの作品を読むとき、私はその一人称である語り手と、作者イシグロのほかに、「書き手」とでもいうべきもうひとりの「わたし」を挟みたくなる。この「わたし」は、語り手である「わたし」が震えながら立ち向かっている物語に対して、おそらく一切の興味がない。語り手がその場で感じているであろう狂熱、哀しみ、そして執着心といったものを、たしかに書き下しながら、それを読者から隔てようとするなんらかの作用を及ぼしているのである。読者としての私たちは、そこになんらかの「上滑り」といったものを感じる。この傾向はもちろん『日の名残り』にも感じられるが、『わたしたちが孤児だったころ』以降、より深まっているように思う。
 思えば、『わたしを離さないで』のキャスがNever Let Me Goの歌を口ずさむとき、彼女が抱いているのは存在しない赤ん坊である。そして彼女らに子供をなす力が与えられていない以上、赤ん坊はなんの斟酌もなく、未来においてもそこには立ちあらわれない。では、だれが「わたしを離さないで」と言っているのか? それは永遠に存在しない「わたし」である赤ん坊の声としても聞こえるし、「不在のわたし」にすがりついているキャスの声とも聞こえるが、いずれにせよ気味のわるいシーンではあり、どちらかというとこの光景をみて恐怖に打ち震えたマダムの声のほうが、読者には身近なものとして伝わってくる。
 長々と遠回りをしたが、『充たされざる者』においては様相が若干変わってくる。この小説では、カフカの世界を思わせる中欧的な町をおとずれた、世界的な音楽家ライダー氏が、町の人びととチェーホフ的なディスコミュニケーションに陥りながらも、だんだんと町の人びとの物語に同化していく。どうやらライダーの自己は町の幾人かの記憶とつながっているらしく、数限りないすれちがいを繰り返しながらも、ライダーは経験したはずのない記憶にみちびかれて、その人たちの人生に深入りする。とくにボリス、シュテファン、ブロツキーなどといった登場人物たちは、ライダーの人生のある一定の場所と重なり合っているらしく、ライダーはこの町で、すこし変奏された「わたし」の現在過去未来をながめているのである。
 このように執拗に「わたし」を見つめようとする「わたし」の目線は、ほかのイシグロ作品には感じられない。ただし、「上滑り」はここでも確実に起こっていて、ライダーと町の人間たちの会話は空回るばかりだ。しかしながら、この「上滑り」は読者と語り手(わたし、ライダー)の間ではなく、ライダーとライダーの「わたし」を構成しないらしいほかの登場人物の間に起こる、きわめて古典的なものである。「わたし」の「わたし」に対する熱っぽい視線に、この作品の中で出逢うとき、ほかの「わたし」に無関心な私について、もういちど考えて見なければいけない気にさせられる。

「ほかの人たちはね」ゾフィーが言った。「この世に永久に時間があるみたいに振る舞ってる。でも、あたしは絶対そんなふうにはできなかったわ」
 数分間、彼女は黙っていたが、わたしは彼女の存在をとても近くに感じ、なぜかもうすぐ彼女の指がわたしの顔に触れるのを期待していた。
(31)

(『充たされざる者』 古賀林幸訳 ハヤカワepi文庫)