21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

S.レム『ソラリス』 「ソラリス学者たち」

――自分が相手にしているのは、確かに知的な、ひょっとしたら天才的な構築物の断片なのかもしれないが、そこには狂気すれすれの、手のつけられない愚かさの産物が支離滅裂に混ざっている。そのため、「ヨガ行者の海」という概念に対するアンチテーゼとして、「白痴の海」という考えが生まれたのだった。(39ページ)

 最近、SFを集中的に読んでいて思うことは、SFというのはとても「わたし」の度合いが強い文学だということだ。もちろんそこが純度が高く、かつ、時にはアクロバチックな「わたし」論が展開できる場所だ、ということもあるが、なによりもたとえば歴史小説家が過去の事象を語るとき、「プルターク『英雄伝』に曰く」、というように引用ができ、ある意味「他人のせい」にできるのに対して、宇宙や未来について語るときは作家の想像力一本に頼らざるを得ない。SFはとても責任感のつよい文学なのである。もちろん科学や理論を参照することはできるが、それをいかに具象化するかは作家の個性によるだろう。(ちなみにこの一説、昨日紹介した『グラン・ヴァカンス』の著者、飛浩隆さんのブログから拝借した。原文は、「サイエンス・フィクションというとき、そのSはふつう具象の形をとる」ともっとかっこいい)。
 閑話休題伊藤計劃『ハーモニー』の、「我」あるいは「意識」論が私としてはたいへんしっくり来たわけだが、ただし、これには、古典文学履修者にとって、ヨーロッパ文学の伝統に則った「わたし」観(原罪=意識=病)がマッチした、という一面が否めない。一方、古典的なSFはもうすこしハードコアな「わたし」を描いているのではないかと思い、ここで『ソラリス』である。
 さて、『ソラリス』に描かれている「わたし」、ということになれば、未知の「海」にぐわんぐわんとデリカシーなくえぐられている主人公ケルヴィン博士の「わたし」なのだが、それ以前にもっとデリカシーなく人間たちにいじくり回されているソラリスの「海」そのものが、第一の「わたし」であると言えるだろう。
 第二章ではソラリス学の歴史が語られる。つまりこのソラリスの「わたし」に対して、人間たちがさまざまの方法でコミュニケーションを試みたが、まあ、おおざっぱに言えば「無理だった」という歴史として。ここでは人間たちのアプローチが、どうしても自分たちの哲学的過去を振り返り、海に「意識」はあるのか?、何らかのプロセスが行われているらしいが、それを「思考」と呼んでもよいのか?、というところにいたることが重要だろう。つまり様々の現象をもたらす「海」を生命と見た場合、人間は哲学なり倫理なり宗教なり、みずからに対する解釈の歴史の範疇でしかアプローチできないという事実として。
 ここでもう一度、もとの話にもどるが、ここを読むとやはり人間は「わたし」のうちの「意識」というテーゼに対して、なにかしら倫理的なアプローチしかできないのではないか、という思いにとらわれる。すなわち「無意識」であるとか、「身体」であるとかそういう責任感のない領域に対しては、けっこう他人事っぽく解釈できるのだけれど、「意識」はいちおう自分で制御できている部分あるいは制御する主体なので、かならずしも「原罪」ではないにしても、どうしても良いとか悪いとかいう話になるのだ。ケルヴィンの「知らんぷり」、とそれに対する責任感に向けて、この項つづく。

私は振り返った。薔薇色のカーテンが、まるで上の方から火をつけられて燃えているようで、激しい青色の炎が鋭い線のように見える。そして、その炎の線は刻一刻、広がっていくのだ。カーテンの布地をぐいと脇に引くと、恐ろしい火事のような光景が目を眩ませた。それは地平線の三分の一を覆っていた。長く、亡霊のように引き伸ばされた影の束が、波の合間のくぼみをつたってステーションのほうに向かって走っていた。(43ページ)

(『ソラリス』 沼野充義訳 国書刊行会