21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.ラヒリ『停電の夜に』 第2話「ピルザダさんが食事に来たころ」

口に入れ、ぎりぎり待てるだけ待ってから、やわらかくなったチョコレートをゆっくり噛んで、ピルザダさんの家族が無事でいますようにと祈ったのである。(56ページ)

 "When Mr.Pirazada Came to Dine"というような題名のつけ方はアメリカ人の発明なのか。たとえば日本の古典や、短篇小説、そしてロシアやフランスの短篇にも"When..."というような題名は見られないように思う。また同じ英語で書いていても、イギリス人はやらないように思う。たとえば『今昔物語』や『宇治拾遺物語』なら、(うろ覚えだが)「○○の僧△△が××したる話」というように、完全に落ちまでいっており、条件節で寸止めするような無粋なまねはしない。なんとなくサリンジャーでも連想してしまう題名のつけ方だが、実は『ナイン・ストーリーズ』にも"When..."という小説はない様子で、短篇小説においてこういう技法が編み出されたのはいつか、無責任に空想を遊ばせるのもおもしろい。
 さて、「ピルザダさんが食事に来たころ」を書いている小説家はイギリス生まれのインド系アメリカ人で、この短篇の主人公も似たような経歴を持っていて、少女である。まあまあ成功しているらしい移民の両親のところには、ダッカから来たピルザダさんが毎日のように食事にやってくる。彼は少女にお菓子をくれたり、ハロウィンのカボチャを作るのに失敗したりしてたわいもない日々をアメリカですごしているのだが、バングラディシュという国が生まれる戦争が背景としてはあって、少女は大人たちの心を感じられるような感じられないような場所にいる。
 このあいまいな少女の心を俯瞰するのに「来たころ」、という題名はとても力強く働いている。あらすじや構成を書いてしまえばきわめて単純な小説なのだが、回想というあいまいな距離感が心地よくもあり不安でもあるからだろう。

あれは私がアメリカで最初に悼んだ死であった。(「三度目で最後の大陸」)

(『停電の夜に』 小川高義訳 新潮文庫