21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.D.サリンジャー『九つの物語』 第六話「エズミに捧ぐ」

ホテルにはニューヨークの広告マンが九十七人も泊り込んでいて、長距離電話は彼らが独占したような格好、五〇七号室のご婦人は、昼ごろに申し込んだ電話が繋がるのに二時半までも待たされた。(「バナナフィッシュにうってつけの日」)

 ふらふらしたところに立っていますか? 不思議なことに人間は、ふらふらしている人に魅力を感じたりするものである。そして、ナイン・ストーリーズの主人公たちは、すべてふらふらしたところに立っていて、その作品の冒頭にはとりわけ、数量的にも、位置的にも、バランスの取れない場所にいる。
 さて、たとえば「テディ」の主人公テディは、短篇の冒頭で、買いたてのスーツケースの上にいる。そこから世界を眺めているのである。その不安定さは安易なまでであり、最早ここまでいくと、アリョーシャ・カラマーゾフがこの世とあの世の境を彷徨いながら、その地盤があまりに確固であるのに似てしまう。「愛らしき口もと目は緑」の女は、不安定な右腕の上に身体をささえているが、それよりも、「バナナフィッシュにうってつけの日」の九十七人の広告マン、続く作品群の「三時近く」「五週連続」「一九二八年」「十五回、いや二十回にもなるだろうか」という冒頭、そして「エズミに捧ぐ」の「四月十八日」のほうがより不安定だ。
 「エズミに捧ぐ」は、単純に読めば、チャンドラーの『長いお別れ』のような約束の話である。従軍中の未来の作家が少女に、「愛と汚辱の短篇」を捧げる、というような美しい物語として成立している。だが主人公は時おり時計を気にしているのだけれど、結婚式が行われる「四月十八日」と、義母が遊びに来る「四月の最後の二週間」のわずか二日間の連結部分に惑わされる。生活者はこの二日の調整に追われるのである。
 男は少女エズミと出逢った四十四年四月三〇日から、ノルマンディー上陸作戦を経ておよそ一年経った世界で、短篇の週末部分を迎える。だが、このときまでに、死んだのかどうかは分からないものの、行動を共にするアメリカ兵は六〇名から九人にまで減っている。そして男は、ナチスの中年婦人が残したゲッペルズの本に、ゾシマ長老の言葉を書きつけてしまうくらいに病んでいるのだ。そしてエズミから送られた時計は、包みをひらく前に壊れてしまっていた。
 とかく、サリンジャーの追い討ちは横暴である。人生に対する嫌がらせのように。

エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機――あらゆるキ―ノ―ウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。