21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』

なにが平成だ、随分言ってくれる、と思いつつもどうでもいいやという感じでつい聞き流してしまう。だって嫌だったら断ってしまえばいいのである。どうせ何の覚えもない相手なのだから。(15ページ)

 

 「タイムスリップ・コンビナート」の初出は1994年、つまりは平成6年で、四半世紀も昔のことなのだった。語り手の「私」は夢で恋愛したマグロから電話がかかって来て、海芝浦という駅に行けと言われる。謎のマグロ、駅員などとの噛み合わない会話を交えながら、基本的には一人語りを繰り返して、JR鶴見線の実在しない駅にある沖縄会館を目指す。

 二十年ほど前の青い自分が、あまり好きではなかったタイプの小説である。つまり不条理はいいけど、衒いすぎではないか、と感じていたのだと思う。不条理といえば、カフカにハルムス、あるいは安部公房のように無機質であるべきだと信じていたのに、この作品は東芝とか鶴見とかブレードランナーとか、挙げ句の果てには平成、とか言っていたので。

 しかし四半世紀を経て読み返すと、二十世紀末の日本と不条理のコンビネーションが丁度いい感じで面白い。なお、今回読んだ河出文庫の『笙野頼子三冠小説集』には、他に三島賞の「二百回忌」、野間文芸新人賞の「なにもしていない」が収録されているが、「二百回忌」は本当に歴史を超える名作だし、「なにもしていない」は今読んでもまったく面白くないので、評価というのは難しいものである。

 そして、今回何よりも印象的だったのが、「タイムスリップ・コンビナート」の一人語りの文体が、カレー沢薫のエッセイの文体に酷似していることだった。つまり、二十世紀末の不条理文学は、二十一世紀のおもしろコラムに後継を見出したのである。一つ二つ、例を挙げてみよう。

 

 随分怖い「はい」もあったものだ。

 だって相手の「はい」は、嘘だ何も考えているものか考えているのだったらそのことを言えよ、という意味の「はい」なのである。が、そんな「はい」ですら実は寝呆けの私の前には無力なのだ。私の場合口と心が離れていさえすれば、相手の出方がどうでも少しも怖くはない。たとえどのようなタイプの「はい」が来たところで、論理整合性だけを気にしながら、何の意味もない言葉をペラペラ出す事も出来るのであるから。(「タイムスリップ・コンビナート」13ページ)

 

 確かに私は、小学生ぐらいまで、割とうるさい方の子供だったような気がする。しかし友達が多かったかというと、やっぱり少なかった。

 つまり私は「壁に向かって活発でおしゃべり」だったのである。友人とワイワイやっていたわけではなく、一人で元気に飛び回り、でかい声で独り言を言っていたのである。

 それではただの親に心配される物件ではないかと思うかもしれないが、肉親や心を許した相手に対しては饒舌だが、そうではない相手の前では地蔵、というのは典型的初期コミュ障である。よって親の前では本当に「活発でおしゃべりな子」だったのである。カレー沢薫『非リア王』)

 

 独特の理屈で論理展開するばかりか、「〜だが、〜である」という文章の組み方まで似ている。次は、恋したマグロの存在を解釈する場面。

 

それ故に私はいつか彼の事を、マグロではなくて男の人魚かもしれないと思い始めた。というよりそんな考えの中に逃げた。あるいはマグロの中から進化したものだと。するとそう思った時、心が通じた。マグロはこっちを見て頷いたのだ。それは恋人としてのマグロだったのだ。ただし、恋といっても目と目を見交わす以外のことは起こりえないし、それが最高の到達点になる。(「タイムスリップ・コンビナート」12ページ)

 

 ホンモノのリア充はネットにはいない、さらに家にすらいないだろう、家などというものはひきこもりが生息する場所であり、リア充ならそこに住んでんのか、というぐらい海やクラブにいるはずである、さらに一人にもならない、常に異性か気の合う仲間(ファミリー)と行動を共にしているはずであり、寝るときですら両隣に美男や美女がいなければならず、ネットなどやる暇はない。(『非リア王』18ページ)