21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

マイケル・サンデル『これからの正義の話をしよう』 第9章

 たいへん面白く読了したのだが、非常にわかりやす過ぎて、これでハーバード大の「政治哲学」の単位がもらえるというのは一種の「ゆとり」ではないかと思ってしまう。やはり、未来のアメリカの指導者達には、「来週までに『実践理性批判』読み通して来いやぁ!」ぐらいの教育を施してもらわねば。
 さて、前回も書いたが、どうにもこうにも8章くらいまでは、どのあたりが「これからの正義」なのか、という思いが拭えなかった。ベンサム、カント、アリストテレスと古典哲学が来て、例はあたらしいものの、一定の必要十分条件を与えられて、その元で正義を考えるというカテゴリカルな思考が、どうにも「倫理の授業」チックな印象を与えてくる。しかし第9章は帰属意識アイデンティティ、そして恥の概念という、なにやらJ.M.クッツェー的な命題がでてきて、私には刺激的だった。(いかにも20世紀的である、とも言えなくはないが)。そうだよね、自分の五感で捉えられる範囲についての正義をカテゴリカルに語る、というのは所詮、「私は一億円渡しましたが、相手が反社会勢力だとは考えていませんでした。Kさん、まだ間に合います。(夜道には気をつけてください)」というのと大差ないよね、と思えてしまうのに対し、自分が一定の帰属意識を持つ集団が抱えている「恥」(それこそ、クッツェーの『鉄の時代』に描かれたアパルトヘイトのような)を議論の対象にしなければ、20世紀以降の正義は語っていないよね、と思えるからだ。
 「恥」というものはとても重たくて、あまり真剣に考えすぎるとイデオロギーのみならず、アイデンティティが崩壊するような気がするのだが、そのためか「これから」を書いた第10章はずいぶん微温的だった。とりあえず、もう一回『鉄の時代』を読むべきか。