21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『始まりの言葉』 「「時」の沈黙」

ここにも矛盾はある。科学は究極不滅の原理である存在への探求を断念したところから、近代へと離陸したはずなのだ。「創造」を解除されたとでも言うべきか。究極の作動主である一者の干渉の絶えた空間と時間へ探求を限定したその上で、そこに生じた無差異、等質あるいは無質の場において、無限の測量と試論を、無限追求を可能とした。(38-39ページ)

 きのう、蔓延する性質としてのテクノロジーについて、想像をめぐらせたが、すこしずつ読み進めている古井由吉の次の章は、奇しくも、時代のそこここに浮かんでいる、「不死」としての科学技術のことを書いていた。「この都市は、老と病と死のためには造られていない」というつぶやきからはじまるこの章は、はたして前近代には、老病死へもうすこし広い場所がわりあてられていたのか、という当然の問いかけから、近代のはらむ「不死」性へと筆をすすめていく。この過程で、「二十世紀はこれまでの世紀のうちで、もっとも多くの人名を奪った世紀だと言える」、と書いているのは、この作家にしてはいささか不用意であるように思えるが、永遠にスクラップ&ビルドをこなしながら前進していくテクノロジー、そして、ふつうの人が、その生活をのりこえていく上で出会う「抽象」の事物にこそ、「不死」の概念は居残っている、ということには共感を覚える。この「不死」は魂の不死とほぼ同質のもので、人びとがみずからの死の場面に立たされたとき、彼岸に向かう自己の主体をおいて残っていく、というものだろう。
 ひと呼吸おいて、文は死が迫っていることを人間に告げるものとしての、時鐘とサイレンのちがいについて触れている。寺でも教会でも、鐘が鳴る、ということはそれだけわが身が死に近づいていることを告げているが、空襲を知らせるサイレンは突発的な死を予告する。ゆえに、同じくその一瞬を告げていても、それまでに、あるいは死んだのちの時間のつらなりを、サイレンは否定している、ということだ。そして、ひるがえってサイレンも鳴らなくなった現代、沈黙する時は、時間を区切ることもなく、ひとびとの生を急流に流しこんでいる、という。
 感覚としてはとてもよく伝わる。しかし、ここで若干の違和感がある。思わず二十世紀という時間の単位が、多くの人を虐殺した、と言ってしまうように、テクノロジーという不穏な空気を孕んだ時間が、急流となってひとびとを死へ流しこむ、というのは現実か。どちらかというと、急流は流れを弱め、大きな水のなかに漂っている人間たちが、時に感染していくのが、時間の恐ろしさのような気がするのだが。