21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

福永武彦『草の花』

僕は夢中になって生きていたし、世界というのはそういうもの、憎悪も残酷も無慈悲もなくて、愛されあれば足りるものと、そう思っていたんだ。今は違う、今は、僕の世界と外部の現実とはまったく別のものだということが、僕にははっきり分かっている。僕達は戦争に追いやられたが、僕達の誰が戦争なんかしたいと思ったものか。こんな野蛮な、無智な、非人間的な戦争なんて、誰が悦んで参加するものか。しかし僕等はまったく惨めなほど無力で、赤紙が来たらもう否(いや)も応もないのだ。僕はそれがたまらない。だからせめて今だけは、僕は僕でいたい、僕の夢を描いていたい。いま僕が夢を見るのは、謂わば作為的に見るのだ、昔のように、夢を見る以外に生き方を知らないのじゃない。(163ページ)

 

 結核療養所で死んだ汐見の手記を、語り手が読むという構成で、初めて読んだときには、ウルトラ古典的な設えに面食らった。しかし、青春を遠く超えて読み返してみると、引用のいかにも青い独白を含め、青春の速度を描く上で、たいへん優れた構成なのだと思う。

 というのも、第一の手記は実に薄ぼんやりしている。美形の後輩、藤木に恋した汐見のほぼ独白で、かなり甘めのBL展開が続く。しかし、第二の手記になると、藤木の妹、千枝子が登場して、汐見に疑問を投げかけ、そこに対話が誕生するため、第一部でかなり色ぼけていた汐見の意識は加速する。この後半のスピード感が気持ちよかった。

 思えば、そうかも知れない。汐見は青臭く閉じた視野を、「現実を見ていないで夢ばかり見ている」と批判されるのだが、それに素直に応じることはできない。反論する中で、汐見の強烈な自我が形成されていく。その中で、「夢を作為的に見る」という言葉のチューニングが丁度よい。

 

(『草の花』初版1954年、新潮文庫版1956年)