21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

伊藤計劃『虐殺器官』 第一部4

ぼくには、ことばが単なるコミュニケーションのツールには見えなかった。見えなかった、というのは、ぼくはことばを、リアルな手触りをもつ実態ある存在として感じていたからだ。ぼくにはことばが、人と人とのあいだに漂う関係性の網ではなく、人を規定し、人を拘束する実体として見えていた。(42ページ)

 息をもつかせぬ面白さ、などと書くのは、感想文としては陳腐に過ぎるだろう。しかしながら、21世紀以降に書かれた小説を読んでいて、これほどページをめくる手を止めるのが難しかった記憶はない。筋立ても、キャラクターの配置も、セリフ回しも、びっくりするほど陳腐なのに、どうしてこれほど面白いのだろうか?
 9.11以降の監視社会に生きる主人公は、父を自死で失い、交通事故で生死のあやふやな状態になった母親の生命維持装置を止めた、という傷を持ち、暗殺を専門とする米軍の特殊部隊員。虐殺を続ける某国の高官を暗殺した際に、虐殺の原因となっている「虐殺器官」の存在と、それを発明したもとMITの研究員を知り、この男を追跡して暗殺する任務を受けることになる……こうしてあらすじを書いてみれば、やはり20世紀の物語をなぞっているだけのように見えてしまう。だが、これは確乎として21世紀の物語だ。
 おおきな特徴としては、SF、というジャンルの作品であるにもかかわらず、うんちくがテクノロジー脳科学、物理学などに偏らず、おもに言語学と文学を中心に展開すること、そして、それゆえにか、一行一行が持っているすさまじいまでの説得力である。たとえば、(生前から死後まで営業を続けるであろう)「ドミノ・ピザが不変性を獲得している世界から、ぐるぐる変わる世界を語ることはとても難しい」という一行。各地の内戦に参加しながらも、ハイテク機器に守られて作戦を実行し、あくまで「他人事」としてしか世界を見られなくなっている主人公の、それゆえの苦しみを、驚くべき見事さで書ききっている。そう、この世界では、イデオロギーは世迷いごとに過ぎず、アイデンティティは確認や支払いのための個体認証に同一化されてしまっているが、人間は自分の持つ世界観を守り抜くことに悪戦苦闘しているのだ。
 これだけ実感を持って読める本を書いた人が、すでにこの世にいない、と知らされるのは悲しくてならない。

「実際にはね、ヒトの現実認識は言語とはあまり関係がないの。どこにいたって、どこに育ったって、現実は言語に規定されてしまうほどあやふやではない。思考は言語に先行するのよ」(第二部4)

(『虐殺器官』 ハヤカワ文庫JA