21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

大庭みな子「寂兮寥兮(かたちもなく)」一

「明かるい雪の畦道を野辺送りの行列が通って行った。あたり一面銀世界で、田の水だけが黒かった。乳色の柔らかな雲の間から、陽が洩れ、ときどき思い出したように白い雪の花びらが舞い落ちた。
 四人の若い男が花嫁の輿をかつぐ晴れやかな顔で、柄のついた板の上にのせた柩をかついでいた。男の一人は死んだ兄の顔だった。
 十人ばかりの男や女はみんな白い着物を着て、二つ折りにして後ろを閉じた白い布を帽子のように被っていた。うつむいた若い女のきつく紅をさした唇は嫁入りするときの思いつめた結び方だった。」
(169ページ)

 最近、絵を見るのが好きで、どちらかというとそれは美しいものを見たいというより、世界をどのように切り取っているか、ということへの興味、のように感じるのだが、不思議なのは小説というものはどうして絵があるのにわざわざ描写をするのかということだ。むかし、映画が描けるような姿や動作だけではなくて、動作をするものの感覚やいたみ、たかぶりといったものを書ける、と書いたような気がするが、大庭みな子の場合、そのモチベーションは絵画のクオリティの絵が動く、というところにある、と感じる。
 引用したのは、主人公万有子の、作品の冒頭にかかげられた夢のシーンだ。色彩のコントラストは、白と黒と赤しかでてきていないのにあざやかで、とくに白にかんしては細かい指示を与えられて着色され、雪の銀、雲の乳色、着物の白と色のあわいが読者にも見えるようになっている。
 アニメーションならともかく、美術館にかかげられた絵画、というものは決してうごくことがないままその動作も含めた世界を表現しているけれども、ここでは夢のなかで猫になった万有子が走るときに絵画も動く。これだけの描写力を駆使してこそはじめて小説だ、と言われているかのようだ。
 さて、物語は幼いころから隣どうしで育った万有子と二人の兄弟についてのもので、兄弟に与えられた沌と泊、という名前といいなんかマンガみたいだ。三人はおさないころから「スサノオごっこ」をして育った仲なのだが、弟のほうが死んで兄貴は甲子園で優勝する、というようなことはなく、兄の沌は女優と、弟の泊は水商売の女と、いちはやく結婚してしまい、万有子は見合いで銀行員と結婚する。そして、それぞれに配偶者の幼なじみに嫉妬していたらしい万有子の夫と、泊の妻が、不倫旅行の途中で事故死してから、万有子と泊は二人で暮らすようになる。
 中篇に愛憎劇が山もりになっているから、細密な描写のいっぽうで、くどい説明がかなり多いのだけれど、この作家のほんとうにすごいと思うところは、夢や心象風景の描写と、たんなる説明を、同じ文体、同じリズムで刻みきってしまうところだ。たとえば下の場面。

「万有子は父のそういう言い方をとても下品だと思った。向うでは金貸しがと言っているだろう。万有子の父は退職した銀行の昔の部下の中から物色して秀才だということになっている青年を婿養子にすることにした。
 父は銀行を退職して融資先の会社の社長になったが、銀行との縁を深くしておきたい様子だった」

(九)

ただひたすらの説明の文が、冒頭の描写と同じ息の長さで、同じような読点の入り方で語られている。小説の力、というか、小説を書く力を感じさせられる作品である。

「寂兮寥兮(かたちもなく)」 『大庭みな子全集』第8巻(2009)所収 現本1982年