21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『辻』 「雪明かり」

無事。この二文字を日々書留めるだけで、立派な日記になるのだろう。(『仮往生伝試文』)

 かつて、院生時代、書評のまねごとをさせていただいたことがあり、そのとき、古井由吉の『野川』を評して、「ひとつの段落ごとがひとつの作品になっている」、と書いた。昨年、かなり忙しいころ、もういちど『野川』を読み返して、どうしてそんなことを思ったのか、まったく分からなくなっていたのだが、この「雪明かり」を読んで、同じ感想を抱いた。
 ずいぶんとこのブログも間が空いたので、本はある程度読んでいるのだけれど、書けないでいる内容が多く、「古井由吉ストーリーテラーである」というのを、「杳子」あたりを素材にして、またあとで書こうと思う。だが、ある一定の時期から、ストーリーが凝縮され、微細なものに分割されたのではないか、というのが仮説だ。そのあたり、すこし、この短篇小説で実証してみたい。
 この作品は7+24+17の48段落で構成される。三つの数字の足し算にしたのは、それぞれの段落が終わったあと、一行の空白が挿入されるからだ。この、最初のひとかたまりで、主人公の望月は、あとひと月で定年を迎えるその二月にいる。

二月に入り雨が降るようになった。日曜の正午前に、今にも雪になりそうな雨の中で望月は頭上に何かの音を耳にして振り仰ぎ、枯枝に縋る滴に目から惹きこまれた。垂れさがる小枝の、さらに細い枝をどこまでも分けるその節ごとに、あるいはふくらみかけた芽に沿って、滴の玉が雨天の薄明かりをそれぞれに硬く集めている。いつまで落ちずに留まっているのだろう、と考えて長い眠りから覚めた心地がした。(第一段落)

 ふたつめの段落で、定年を前にした望月のいまの感覚が明かされる。ただそれだけで、次の段落からは一週あとのことになる。望月はもういちど枯枝を見上げるが、この木はせんだっての木とはちがい、「もう十何年もただ遠くから眺めたいた雑木林」だということだ。また改行し、「一日中同じように降っていても、雨の変わり目と言うものがあってな、惹きこまれると、魂が抜けそうになる」という望月の父の独白が、わずか一文からなる段落として記される。五段落目は、すでに翌日の夜明けのこととなり、夕方には上がっていたはずの雨がもう一度降り出し、そこで、「望月の上司の一人が月曜の早朝に自宅で首を吊ったのはもう二十年近く昔のことになる。辛夷(こぶし)の花がチラホラ咲きました、とまだ二月のうちなのに、遺した走り書きにはあったという」、というおそろしげなエピソードが挿入される。この上司は、二度と登場しない。つづいて望月は、高齢出産を控えた娘を見舞いに行くことを考えるが、寝室で目をつむったままなのに、一瞬にしてふたつもの時空をかけめぐってしまう。

、とまだ目をつむったまま、下りの電車の、がらんとした車内の隅で居眠りをしている年寄りの姿を眺めるうちに、田舎町のむこうからせかせかした小足で近づいて来る父親に出会った。
 娘のところに、孫が産まれたので、祝いに行くと言う。娘とはその二十何年も昔に五歳で亡くなった、望月の知らぬ姉のことだった
(第六〜第七段落)

 7段落、単行本にしてわずか3ページほどのあいだに、場面は三度変わり、時間は一週間以上経過するが、望月のなかでの時空は、それ以上にあわただしく巡っている。枯れ枝のすきまに溜まり、あやしく光る滴のイメージから、「雨の変わり目」についての亡父のことば、見えるはずのない花を眺めて死んだ男、そして痴呆をわずらう父の姿、へと連想が巡るのは理解できなくもないが、下りの電車の隅で居眠りをしている老人は誰なのか。かれの正体をさぐるつもりがなくとも、物語は、次から次へと溢れだし、そして途絶えている。そして、「長い眠りから覚めた」はずなのに、この間、望月の目は木の間の滴いがいのなにものをも見ていない。
 つづく24のひとかたまりにおいては、物語はもうすこし集約される。望月は大学四年生なので、おそらくは38年前のこと、望月の父は70を手前にして、じぶんの兄、つまり望月の伯父の住む実家に居候しているが、痴呆の症状がでてきたらしい。ひとつ年上の望月の従姉が父の面倒をみていて、かつて二回だけ唇を合わせたことのある彼女からは、毎週のように父親の様子が手紙で届く。

まだ来てはいけない、と真佐子の声が眠りの中からも立って、夢を抑えられなくなった。真佐子は背中で誘って物蔭に入り、物蔭も抜け、細い空地に出て向き直る。望月は初めて真佐子を抱きすくめる。足もとの苔から水がじくじくと染み出る。汚れた窓の内から父親が見ている。この世に亡い者たちの不思議な振舞いを怪しむような目だった。こんなことができるのは、自分たちは二人とも、もう死んでいるのではないかと疑うと、真佐子の唇が固くふくらんで冷いようになる。(第二一段落)

 立ち位置である苔の土から水が染み出てくるほどの鮮明な場面であるのに、この部分は、従姉・真佐子からの手紙がおおっぴらな恋心を伝えてきたことを受けた淫夢である。そして、父が言うという、死んだ女たちの声と、誘惑しながら焦らしている真佐子の声と、そして真佐子が手紙に書いていたという「(父の容態は)あなたが駆けつけるには早過ぎます」という声が、「まだ来てはいけない」という声に重ね合わされている。あるいは38年後の望月にも響いているのかも知れない。第三〇段落、父はもう一度、五歳で死んだ姉の名を口にし、それを知らせているはずの従姉の手紙は、このように結ばれる。

今日は何も変わりありません、と真佐子は手紙を結んだ。(第三一段落)

最後の17段落のかたまりは、ついに望月が父と真佐子のもとをおとずれる場面である。このように3つのかたまりとしてみれば、小説の構成は明白で、一.定年をひかえた主人公の回想まで、二.(回想1)真佐子の手紙に描かれる父、三.(回想2)父の郷里での真佐子との対面、となり、血縁のちかい真佐子との恋と、死んだ女たちが辿る「女の道」を語る父の晩年、が二つのモチーフである。あるいは記憶の混乱をおぼえはじめた定年前の望月に、父と同じ痴呆と死の陰をみることも可能かも知れない。
 だが、かように単純化してはこの小説はつまらないだろう。なにしろ、タイトルは「雪明かり」であるのに、作品の大半を占めるのは雨の時間だ。さきほど細かく見たように、59歳の望月のまわりには絶えず雨が降ったり上がったりしているし、手紙のなかでも絶えず雨が言及され、読者の目前に雪が広がるのは、主人公が父の郷里をおとずれる、大学四年生の三月の、わずか三日間のことである。この間、雪明かりは微かに固まった事物を照らすが、固まった事物というのは必ずしも現存しておらず、老狂の父はこのなかに死後の世界を見ている。そして、望月が父の郷里を発つとき、もう一度雨が降る。

翌日、望月の発つ日は予報に反して生温い雨気の風が吹いた。春先を思わせる滴の玉を小枝の節々につけて灰色の空に輝かせる枯木を見あげて真佐子は立ち停まり、昨夜は雷が鳴ったのにとつぶやき、いつか、また会えるわね、と笑って望月を行かせた。(第四七段落)

(『辻』 新潮社)