21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

F.ドストエフスキー『白痴』 第三部

「ああ、ばかなこと言って! 必ずお買いなさい。質のよい、フランス製かイギリス製のをね。その二つが最高級だそうよ。それから火薬を、裁縫用の指キャップに一杯分か、それとも二杯分、流しこむのよ。どうせなら多めがいいでしょう。それからフェルトを詰めて固めるのよ(なぜか必ずフェルトでなくちゃいけないそうよ)。フェルトはどこかで手に入るわ。マットレスの一部とか、ドアのカバーにもフェルトを使っていることがあるから。そうしてフェルトを詰めこんでから、弾を込めるの。いいこと、弾は後で火薬が先。そうでないと発射できませんからね。何を笑っているの? あなたはこれから毎日何回か射撃の練習をして、必ず的に当たるように腕を磨くのよ。いいこと?」(372ページ)

 いま現在私は美容関係の仕事をしているために、「大学院でドストエフスキーをやっていた人が、なんでそんな仕事についたのか?」と聞かれることがあるが、そのたびに、「ドストエフスキーは『美は世界を救う』とゆったじゃないですか」、と答えるのが常である。たいてい相手は、「その『美』はちょっと違うでしょう」と言うわけだが、この言葉の出典をたどれば、『白痴』の第三部で、末期の肺病患者イッポリートが、「公爵、あれは本当のことですか? あなたがあるとき、世界を救うのは『美』だと言ったというのは?」と詰問する場面にあたる。
 公爵がこのセリフをうべなうことはないし、イッポリートも「そんな考えが頭に浮かぶのは、この人が恋をしているからだ」とまくしたててしまうので、はたしてほんとうに思想としてそんな言葉が成立するのかどうかは分からない。しかしまあイッポリートのセリフを文字通りに取れば、この言葉の指す「美」はいわゆる外見の美しさなわけだ。そしてすこし意地悪く考えると、白痴だとか「貧しき騎士」だとかドン・キホーテだとかキリスト公爵だとか言われながら、ナスターシャ・フィリーポヴナとアグラーヤという二人の美人に囲まれて、すっかり勝ち組だなテメー、というイッポリートからの糾弾の声にも聞こえる。
 第二部以降の『白痴』の構造を見ていくと、ペテルブルクのゴシップとスキャンダルのまっただ中に投入された「もっとも美しい人」ムイシュキンが、第一部ではその天然ぶりを発揮して知らん顔を決め込んでいたものの、遺産を相続したことから、あの手この手の糾弾、追い落とし、脱冠にさらされる場面の連続だ、ということができよう。ある種キリストの受難にも例えることができるかも知れないが、「あと二週間で確実に死ぬ」という自意識をふりかざすイッポリートはそのなかでも格段に手強い糾弾者である。かれは「正当性」あるいは「公平性」、つまりロシア語で言うところの「スプラベドリーバスチ」という武器を振りかざして、ムイシュキンの美しさを否定にかかっているのである。
 キリストにたいしてこの種の斧を振るう、という構造はもちろんイワン・カラマーゾフの「大審問官」に見て取れるし、この「美は世界を救う」にはじまる一連のくだりの末尾でイッポリートが取る行動からは、『悪霊』のキリーロフも予言されているだろう。しかしキリストあるいは神に公平性を問うのは最大の禁忌なので、イッポリートの最後の抵抗であるピストル自殺もとんだ狂言にされてしまう。つまり自意識に基づいた正義、というのは美から遠いところにあるのである。
 一方で注目しておきたいのはムイシュキンとイッポリートの距離感だ。イッポリートが「僕を救ってくれないキリスト」として憎んでいるムイシュキンを愛しているのは疑いようがないし、イッポリートはムイシュキン以外の誰にも理解されないようなロゴージンにも親近感を覚えている。ハンス・ホルバインの絵に衝撃を受けるのもこの三人で、その衝撃の言語化はイッポリートがいちばんよくできているようでもある。また、気になるのは、イッポリートがピストル自殺を考えているちょうどそのころ、ムイシュキンはアグラーヤからピストルの撃ち方を教わっている、ということだ。美は世界を救う、というはずの人が、そのセリフを肯定できない背景には、かれ自身の捨てられない自意識が見え隠れする。