21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

東野圭吾『容疑者Xの献身』

ドストエフスキーが描こうとした「もっとも美しい人」ムイシュキン公爵は、必ずしも完璧に美しくないからこそ、美しかった。東野圭吾が描こうとした完璧な愛は、数学のように一点の曇りもないからこそ、うさん臭い。
いきなり暴言を吐いてしまったが、この作品のことが嫌いなわけではない。数学というもっとも美しい学問を極めようとして、挫折した(顔は)醜い男が、アパートの隣に住む母娘のために、自らを捨て献身する、という姿は共感的でもあり、十分に美しい。が、なんか物足りないのである。ムイシュキンという「美しい人」の心が、世界全体の救済という野心に裏打ちされていたのとは違い、数学教師石神にはなにもない。もちろん、なにもないからこそ悲しいのではあるが。
一方で邪念だらけの私は、ミステリとしての仕掛けに欠陥があるのかな、とも思う。「天才が考えたトリック」は、読みながらだいたいこうやろなー、と思うのと寸分たがいなく、ガリレオ先生が気づいた瞬間には読者もトリックに気づくはずだ。伏線を張りすぎなのかも知れないが、数学にまつわる伏線がないと作品自体が瓦解する。なんともムズカシイとこである。

(『容疑者Xの献身』 文春文庫)