21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』

自己同一性の免疫力が低下しているからこそ、じぶんではないもの、異質なものを一種のウイルスとしてとらえ、身体の内部あるいは表面から、身体をとりまく環境から、そういう遺物を徹底的に排除していこうとすると思われるからである。(2「じぶんの内とじぶんの外」)

 2009年に私とおなじ年齢で死んだ伊藤計劃は、「人という物語」という散文の中で、何のために意識は必要なのか?という問いに対し、「それは物語を紡ぐためだ」と答えた。私より3歳上だったことになるが、いつのまにやら同じ年齢になってしまった。この卓越したストーリーテラーのその後の年齢については、かれが私たちの中に遺した物語から想像するより他にない。
 ずっと私たちが他人という物語を読み続けているのだ、と思うとき、というよりはそんなことを思わなくても、「アイデンティティ」という言葉が最近の私には不思議でしかたない。鷲田清一は本書の中で、「自己のアイデンティティとは、自分が何者であるかを、自己に語って聞かせる説話(ストーリー)である」という、ロナルド・D・レインの言葉を引いて、「人生とは、ある意味では、こうした『じぶんに語って聞かせる説話(ストーリー)が自他のあいだでたがいに無効化しあう不協和のなかにあって何度も何度も破綻する過程であり、またそれをたえず別のしかたで物語りなおすべく試みる過程であると行ってもよい」(72ページ)というふうに敷衍している。なんというか、これはとても納得できる話なのだが、そのあとで、「一つの物語しかなければ、それがくずれればじぶんも修復不可能になってしまう」、だから、自分は不確定であった方がいい、と言われてみると、なんとなく違和感も生じるのだ。ところでこの本、本屋でぶらぶらしているときに発見したものなので、新しい本だと思っていたら、16年も前に書かれた本だった。なにしろ、森田芳光の最新作が「ハル」なのだから。
 なにが違和感なのかと言われれば、そのころアイデンティティの確立に四苦八苦していた18歳の私はともあれ、世間的にも、このころ「アイデンティティ」という言葉にはそれなりに意味があったのに、今ではどっちかというとギャグみたいな響きを持っている、ということだと思う。『ハチミツとクローバー』で、自分探しの旅を終えた竹本くんが、「祝・自分探し完了」と大書された垂れ幕で迎えられるみたいに。
 つまり、今や私たちは、言われなくても一つの物語を紡ぐべく生きてなどいない、ということになるだろう。それはそれでいいのだけれど、そう言われてしまうと悲しい気もする。34歳で死んだ伊藤さんの物語は、第一章で終わっている、と言われるのと同じだから。

(『じぶん・この不思議な存在』 講談社現代新書 1996年)