21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

F.ドストエフスキー『白痴』 第一部

「まったくですわ、将軍。私もあなたがそんな優しい心をお持ちだなんて、想像もつきませんでした。なんだか残念なくらい」(322ページ)

 ドストエフスキー『白痴』の第一部はゴシップ小説である。おおがかりなゴシップの構造の中で、登場人物達がそれぞれアネクドートとして自分のゴシップを披露していて、つまりは金太郎飴のようにどこを切っても醜聞(スキャンダル)が出てくる。
 大枠をなしているのは、幼いころから身寄りがなく、トーツキイの愛人として囲われていたヒロイン、ナスターシャ・フィリーポヴナが、エパンチン将軍の秘書、ガーリャ・イヴォルギンに持参金付きで引き取られる、というゴシップである。どうやらガーリャはこの美人をむかし愛していたらしいが、トーツキイが彼女を譲り渡すのがエパンチン将軍の長女と結婚するためであり、雇い主であるエパンチン将軍のほうはガーリャがナスターシャと結婚したら、すぐ自分のところにレンタル移籍させるつもりでいる、という複雑な取引条件を知って、自分の人生はなんとアレなのだろう、という感じになっている。
 ところで私は高校生のとき初めてこの小説を読んでから、無性にガーリャが好きだ。全体に漂う負け犬感に共感してしまうのも事実だが、ここで自分の人生を打開しようとして、エパンチン将軍の三女でこれまた美人のアグラーヤに微妙なラブレターを送ってしまうところがいい。しかも、「あなたが受け入れてくれれば、ぼくはこんな醜悪な企みから抜け出せる」と言ってしまうクズ感。しかし結果として、脇役のくせに三角関係モノの二大ヒロインに二股をかけるという、恋愛小説史上だれも成し遂げなかった偉業を達成したのだ。いいぞ、ガーリャ・イヴォルギン。
 さて、こんな草食系のヒーロー、イヴォルギンの元にあらわれるのが、もっと草食系な「白痴」ムイシュキン公爵と、肉食系っぽいけどどうやら中身は草食らしいロゴージンである。小市民のガーリャに比べてどちらもお金を持っている上に、それぞれかなり大胆なプロポーズをナスターシャ・フィリーポヴナにかまして、彼女の心を鷲づかみにするのだ。はじめからエロいおっさん二人(トーツキイと将軍)に囲まれて脇役ぽかったガーリャは、この二人に登場されて、完全な脇役におとしめられる。どうして自分の人生主役になれないんだろう? かわいそうだね。
 と、いうように、先入観なしの無心で『白痴』の第一部だけを読むと、ガーリャが主人公のダメ男小説と読むことも可能である。じっさい、ラスコーリニコフとかこういうやつだった気も。だが、この小説の主人公は「もっとも美しい人を書く」と作者が決めて投入したムイシュキン公爵なのであって、どうして彼はこういったゴシップのレンガ建築、細かいスキャンダルの迷宮に投げ込まれたのかを考えてみるべきだろう。
 実際問題、『白痴』という小説は、テーマの大きさに反比例して、発生するエピソードがいちいちショボいのである。ドストエフスキーという人は、生涯、「エロいおっさんに清純な少女が汚される」というのを最大のトラウマイメージとして持っていたらしく、それこそいろんな作品中のあそこにもここにも登場しているが、ここでも、「もっとも美しい人」に対置されている醜悪さは、年端もいかないナスターシャの境遇を利用して、囲いものにしていたトーツキイということになる。しかし、このおっさん、「悪」としてはかなりショボい上に、そもそも瀕死の妻をロシアにほったらかして若い愛人とヨーロッパ不倫旅行をしていた作者の方が悪いのではないか、という極めてテキスト論的でない疑問がある。ただ、ここに『白痴』という小説の魅力もあるのだ。
 ドストエフスキーの他の長編作品では、「異物」として投入されるものは、常に「悪」(あるいは「病」)である。たとえばそれはラスコーリニコフの自意識であり、スヴィドリガイロフであり、イワン・カラマーゾフの抱える「悪魔」であり、スメルジャコフであり、そして極めつけにスタヴローギンなのだ。そして、ここまで断言すると異論もあろうが、それら「悪」がなんらかの形で滅びることによって世界が浄化される、という、きわめて勧善懲悪的な構造を持っている。しかしながら『白痴』における闖入者は「美」で、この美しい光によって凡庸かつ醜悪な現実が暴きだされる。しかも「美」がそれぞれ「病」という属性を帯びていることによって、この作品を逆説的な希望を持ったものにしているのである。以後、つづく。かも知れない。

(『白痴』 望月哲男訳 河出文庫 2010年)