21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

今月読んだ捨ておけぬ三冊(5月編)

God grant me the serenity to accept the things I cannot change, courage to change the things I can, and wisdom always to tell the difference. (「神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受けいれる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」 カート・ヴォガネットJr 『スローターハウス5』)

 5月。モスクワではその月が存在すること自体が、ほとんど僥倖にちかいと思われるような明るい月ですが、私は雑食を極めながら本ばかり読んでいたようです。4月のSF、そしていくぶん観念的な読書傾向をひきずりながら、後半に至っては街をあるきたいという気持ちがすこし起こったのか、パリを舞台にした堀江敏幸の作品をつぎつぎと読んでいます。

カズオ・イシグロ充たされざる者(古賀林幸訳)

 イシグロの作品のなかでは、もっとも実験的な作風を持つ長篇小説として知られているが、案外にもっともとっつきやすい作品なのではないか、と思われてならない。『日の名残り』、『わたしたちが孤児だったころ』、『わたしを離さないで』といった、もうすこし多くの人に読まれている作品群は、けして自己を対象化できているとは思えない一人称の語り手たちのモノローグが、読者によって読まれるときには、なんだかつきはなされた場所におかれている、という書かれ方に一瞬のとまどいを覚えるが、『充たされざる者』においては、ライダーの語りがもうすこし直截的に響いてくる。

カート・ヴォガネットJr『スローターハウス5伊藤典夫訳)

 この本は私にとって、それについて何かを語るには、まだすこし荷が重い。ナチス・ドイツの捕虜収容所で、ドレスデン爆撃というヨーロッパ最大級の惨事を体験した主人公が、なぜかその後エイリアンに連れ去られたりして、ばらばらのエピソードを行き来する形で物語が語られていく。ときおりには丸投げされるような、それでいて語り手に寄りそっているような言葉にたいして、まだ距離感がつかめない。

人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」(5)

堀江敏幸ゼラニウム

堀江敏幸の作品を読んでいると、とても落ち着いた精神状態になって、本を読む、ということのうえでそれがかならずしもいいことなのか、迷ってしまうくらいだが、ともかくここのところ、中毒性をもって、この作家の文章が必要になってくる。事実(エッセイ・評論)と虚構(小説)のあわい、という、かれ自身がよく言明する形式については、じつは処女作『郊外へ』においていちばんの完成をみているのではないか、と思うが、なぜだか私はこの『ゼラニウム』という短篇集が好きだ。本としての完成度においては、『雪沼とその周辺』、小説としての読みやすさ、あるいはそこに描かれているものの感得のしやすさにおいては、『めぐらし屋』などに劣るものの、ときには醜悪なほど俗世間的な生々しいエピソード(嫉妬だったり賄賂だったり水漏れだったり外人パブだったり)を核として描かれ、かならずしも美しい完成など目指さない作品群にいちばん好感を覚える。