21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

W.フォークナー『アブサロム、アブサロム!』5

まったく、いろいろと、くどくどしいことだ。傾聴する必要などなかったのだが、いやでも聞かされたのだ。そして、やれやれ、いままた最初からくりかえして聞かされるのか。こいつは父の口調とそっくりだな、女というものは美しい生き方をする。女というものは二六時中、誕生と死別、苦悩や困惑や絶望といった事実の単なる影や幻が園遊会シャレードのような内実のない優雅さで、ジェスチャーだけは完全でも無意味にたわいもなく動いているにすぎない非現実というあのなんとなく美しい希薄な世界で霞をくらって生きているのだ、か。(6)

 むかし、ナインティナインの番組に、東野幸治がゲストで出ていて、岡村隆史がとつぜん、「東野さん、なにが楽しくて生きてはるんですか?」と聞いたことがあった。東野さんはあせりながらも悠然と、「お前、楽しいこと、いっぱいあるがな。まずはやな、ガンダムのゲームやろ・・・」とかえしていて、話芸ってすごいな、と思うとともに、いま考えると人生の色んな部分の色合いを感じてしまう。しかし、それはさておき、第6章で突然でてくるシュリーヴが、<南部の話を聞かせてくれ、南部ってどんな所だい? 南部の人はなにをしているの? なんで南部なんかに住んでるの? そもそも南部のひとはなぜ生きてるの?>と聞く学生たちのなかから登場したとき、私が思い出していたのは岡村隆史だった、ということだけ以下の文章にはまったく関係ないけれども先に言っておきたい。
 もうひとつ回想を持ち出してよければ、埴谷雄高の作品集に、文芸誌のアンケートに彼が答えた回答が乗っていて、古今東西の文学作品の中で好きな登場人物は?、と問われ、「ナスターシャ・フィリーポヴナ」と答えていたのが印象に残っている。なるほど、「存在の電話箱」が書けてしまう人の好みのタイプは、汚された聖女なのだと。
 さて、ここから本題に入って、いきなりいささか断言してよければ、小説読みというものは、悪女というものにいささかのフェティシズムを感じるものである。なぜここでフェティシズム、という言葉をつかいたいのかと言えば、悪女とは完成度によって評価されるものだからだ。その意味でナスターシャ・フィリーポヴナは、人間味が残っていると言うか過去につらい思い出がある、というその一点においてあまり完成度が高くなく、なんだか私の中でやはり「存在の電話箱」とむすびつかないのだが、フォークナー作品にでてくる悪女たちの完成度は高い。彼女らは完全に中身からっぽである。第5章のローザ・コールドフィールドと、サトペンの娘ジューディス、そしてもう一人の娘で混血のクライティが、死んだボンをめぐって対峙するシーンの完成度はすさまじい。とくに、ローザをとめるクライティの手の存在感。記述からは、彼女のどこに触れているのかもよく分からないのだが、ほんとうに、ローザがそこへたどり着いたときの、まるでみえない壁におしつけられたような、それでいてあくまでそれは黒みがかった人間の手である、という感覚は重たい。
 第5章のもうひとつのハイライトは、ローザが語る肉体と記憶の論理だろう。彼女らは、かくもクリアな自我というものを持たないが、ウィスタリアの花が蒸発して微粒子になる、という目にも鮮やかなシーンが、彼女の肉体(本人は「筋肉」と呼んでいるが)に刻み込まれた記憶、そして感情になぞらえられる一連の流れは、読んでいて快感である、としか言いようがない。彼女は感情を虚構と呼び、記憶を肉体の反応の不完全な再現である、と思い込むほどに覚めているが、それらすべてはたとえ埃や微粒子であれ物質化してこの世界へ永遠にとどまるのだ、という強烈な執着心に支えられている。彼女の、あるいは彼女らのこの姿は、あっちゃこっちゃに揺れているコンプソン氏の語りによって、ときには美しいと言われてみたり、物質的だとか非現実だとか言われているが、この微粒子をがっつり吸い込んでしまうのは息子のクエンティンのほうである。第5章をおおうローザの語りと、第1章冒頭のクエンティンの目に映った描写は、あまりにも見事に呼応していて、読み手を離さない。