ミステリをたくさん読む(10月)
台風に列島が揺れた先月、私は肩の痛みに慄いていた。右肩が猛烈に痛くて眠れないだけでなく、右手の親指に痺れまで現れ、人には首のヘルニアだと脅されるのだけれど、それまでに住んでいた文京区から、横浜への引っ越しがまさに展開中で病院にも行けない。。。
結局MRIを撮って、ストレートネックによる小さなヘルニアがあることが分かった。古井由吉ばりの大手術は必要なく、姿勢に気をつけていれば大抵治るということなので、椅子だけ高級なものを買った。
首に良い訳のない読書。それでも通勤が長くなったことにより、ミステリ読みは新規6に再読1と捗った。
若竹七海『悪いうさぎ』(文春文庫)★★★★☆
ヘニング・マンケル『白い雌ライオン』(柳沢由美子訳、創元推理文庫)★★★★
原尞『愚か者死すべし』(ハヤカワ文庫JA)★★★☆
ジェイムズ・エルロイ『LAコンフィデンシャル』(小林宏明訳、文春文庫)★★★☆
八木圭一『一千兆円の身代金』(宝島社文庫)★
『錆びた滑車』を再読してやっぱり素晴らしかった余勢を買って、初期葉村シリーズ二作を攻めた。最近の三作と比べるとイヤミス要素が強いのだが、それでも葉村さんの魅力は健在。この人、フィリップ・マーロウやサム・スペードと比べても推理をせず、ただただ巻きこまれるだけなのだが、それでも揺るがない信念の魅力がある。
そして巻きこまれると言えば、スウェーデンの田舎の警官が、ネルソン・マンデラ暗殺計画に巻きこまれ、暗殺者とタメに戦う『白い雌ライオン』。追う目線と、追われる目線が交錯するこの書き方って、考えてみると『新宿鮫 毒猿』とかの雰囲気ですが、長くてもサスペンスが維持されるので読みやすい。
一方、『愚か者死すべし』は裏の陰謀のスケールが大きくなったにも関わらず、沢崎の一人称が貫かれているので、逆に物語に入りこみにくくなったという印象。
視点と言えば三人の警官の視点が交錯する『LAコンフィデンシャル』だが、こちらは集中力続かず、正直話がよく分からなくなってしまった。
最後に『一千兆円の身代金』だが、ちょっときつかった。初見で『大誘拐』のオマージュなのだろうな、と思ったが、『大誘拐』ほどの犯人の魅力もなく、何よりもミステリ要素が皆無だった。
(星5)『不夜城』『錆びた滑車』『OUT』『マルタの鷹』『高い窓』『満願』『静かな炎天』(星4.5)『カーテン』『春にして君を離れ』『涙香迷宮』『私が殺した少女』『リトル・シスター』『五匹の子豚』『ブラック・ダリア』『さらば長き眠り』『さよならの手口』『ブラウン神父の童心』『悪いうさぎ』『ノックス・マシン』『オーダーメイド殺人クラブ』(星4)『さむけ』『戦場のコックたち』『ミレニアム1』『依頼人は死んだ』『神様ゲーム』『スタイルズ荘の怪事件』『白い雌ライオン』『ビッグ・ノーウェア』『刑事マルティン・ペック 笑う警官』『アリス殺し』『天使のナイフ』『折れた竜骨』『バッド・カンパニー』『マネーロンダリング』『鍵のない夢を見る』『果てしなき渇き』『ボーン・コレクター』『生ける屍の死』『檻』『古書店アゼリアの死体』『ビブリア古書店の事件手帖 栞子さんと奇妙な客人たち』(星3.5)『ローズガーデン』『Aではない君と』『愚か者死すべし』『11/22/63』『プレイバック』『教場2』『その可能性はすでに考えた』『LAコンフィデンシャル』『首無しの如き祟るもの』『メーラーデーモンの戦慄』(星3)『秋季限定栗きんとん事件』『四日間の奇蹟』『人間の顔は食べづらい』『八月の降霊会』『暗幕のゲルニカ』(星2.5)『ミレニアム2』『真実の10メートル手前』『ヴィラ・マグノリアの殺人』(星1)『一千兆円の身代金』
ミステリをたくさん読む(9月)
キャッシュレス決済ポイント還元に乗せられて、PayPayとか使い始めた昨今。アプリ経由のサービスを利用して、ロシア語の本をトランクルームに入れてみました。計9箱。月間ひと箱250円は安いのですが、留学時代、まだ物価の安かったロシアで、「安いからたくさん買わなきゃ!」と思ったのがアダとなり、年間3万円の保管料を払うことになりました。
さて、今月は4作品。諏訪部浩一『マルタの鷹講義』に影響されて、また好きな作品の評論とか書いてみたくなりました。
ダシール・ハメット『マルタの鷹』(小鷹信光訳、ハヤカワ文庫)★★★★★
ジェイムズ・エルロイ『ビッグ・ノーウェア』(二宮馨訳、文春文庫)★★★★
オールタイムベスト再読シリーズで、『不夜城』を読み返してみたが、やはりアイデンティティをテーマとした物語として最高峰だと思う。育ての親にあたる楊偉民に、「母国の言葉で話せ」と言って北京語の辞書を与えられ、必死に勉強する少年時代の健一。だが、実際に楊偉民は身内では台湾語を使っていた。いつか台湾語も教えてもらえると思っていたが、日台ハーフの子供を楊は完全には受け入れず、その日はいつまで立っても訪れない…このエピソードには何度読んでも震える。チャイナマフィアどうしの血で血を洗う抗争を、健一が悪知恵で乗り越えていく、という「赤い収穫」的なプロットなのだが、よく読めばコワモテの連中は紋切り型のキャラだし、健一の悪知恵はだいたい裏目に出る。それでも猛烈な勢いで読んでしまい、ヒロインとの悲恋に涙するのは、健一のアイデンティティの浮遊感が際立ち、楊偉民の悪役としての底知れなさが光るからだろう。
ハメットについては、前述の『講義』を読みながら再読。フリットクラフト・パラブルのすごさに初読時は気づかなかった。二枚目でワルでハードでタフなサム・スペードが、物語の最後でどこかしょぼくれて見えるのがこの作品のすごいところだと思う。
『ビッグ・ノーウェア』はもう少しゆっくり読めば良かった。プロットを深読みできればもっと楽しめたかもしれない。解説で法月綸太郎が言っているが、ル・カレなどのスパイ小説に通じるものがある。まあ、警察の内偵とはいえスパイの話なんだけど。
『四日間の奇蹟』は描写が綺麗で、丁寧に語られた物語ではあったが、東野圭吾の某作品と仕掛けが一緒、と言われれば、元ネタに及ばないのは事実かも。。。
今月から全体ランキングに差し込んでいく形にしてみた。
(星5)『不夜城』『錆びた滑車』『OUT』『マルタの鷹』『高い窓』『満願』『静かな炎天』(星4.5)『カーテン』『春にして君を離れ』『涙香迷宮』『私が殺した少女』『リトル・シスター』『五匹の子豚』『ブラック・ダリア』『さらば長き眠り』『さよならの手口』『ブラウン神父の童心』『ノックス・マシン』『オーダーメイド殺人クラブ』(星4)『さむけ』『戦場のコックたち』『ミレニアム1』『神様ゲーム』『スタイルズ荘の怪事件』『ビッグ・ノーウェア』『刑事マルティン・ペック 笑う警官』『アリス殺し』『天使のナイフ』『折れた竜骨』『バッド・カンパニー』『マネーロンダリング』『鍵のない夢を見る』『果てしなき渇き』『ボーン・コレクター』『生ける屍の死』『檻』『古書店アゼリアの死体』『ビブリア古書店の事件手帖 栞子さんと奇妙な客人たち』(星3.5)『ローズガーデン』『Aではない君と』『11/22/63』『プレイバック』『教場2』『その可能性はすでに考えた』『首無しの如き祟るもの』『メーラーデーモンの戦慄』(星3)『秋季限定栗きんとん事件』『四日間の奇蹟』『人間の顔は食べづらい』『八月の降霊会』『暗幕のゲルニカ』(星2.5)『ミレニアム2』『真実の10メートル手前』『ヴィラ・マグノリアの殺人』
ミステリをたくさん読む(8月)
繰り返しにはたしかに、人間の心を摩耗させるものがあって、日々の繰り返しが限界に来るタイミングで、社会は夏休みを取得していると思う。そんなわけで、ゴールデンウィークに挫折したナボコフをもう一度ひもといてみたが、150ページ付近で挫折した。ナボコフに足る心の平安を得るのは、いつの日だろうか。
そんなわけで、軽いミステリばかりを読み続けた夏休みの月。心なしかサイコ色が強い。11作品読んだので、とりあえず年間目標の50はクリア。
アガサ・クリスティー『カーテン』(クリスティー文庫)★★★★☆
原尞『さらば長き眠り』(ハヤカワ文庫JA)★★★★☆
辻村深月『オーダーメイド殺人クラブ』(集英社文庫)★★★★☆
深緑野分『戦場のコックたち』(創元推理文庫)★★★★
スティーグ・ラーソン『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』(ハヤカワ文庫)★★★★
辻村深月『鍵のない夢を見る』(文春文庫)★★★★
スティーグ・ラーソン『ミレニアム2 火と戯れる女』(ハヤカワ文庫)★★☆
ミステリばかりを読み続けると感じる、クリスティーのクオリティー。まあ、『アガサ・クリスティー完全攻略』で五つ星がついたのばかり読んでいるからもあるのですが。その品質を一言で言うなら、必ず驚きがあること。『カーテン』のオチも、無茶があるっちゃあるんですが、素直に驚けるところがすごい。
原尞の沢崎シリーズは、大外れの第一作からは想像できないほど、第二作、第三作とどんどんカドが取れて、熟成された味わいになっている。『さらば長き眠り』の前段は、ミステリとしての驚きも十分で、「これは最高傑作か!」と思ったのだが、オチはちょっと無理があった。
辻村深月は初読みで二冊。ちょっと、カズオ・イシグロを彷彿とさせるような、現実からの浮遊感があって、とても良かった。
『戦場のコックたち』はとても志の高い作品。ノルマンディー上陸作戦をこの解像度で表現できるかと思うと、感嘆しかない。ただ、戦争ものとして、トルストイや大岡昇平と比べるのは無理としても、マキューアンの『贖罪』と比べても、痛みの表現が足りないようには感じる。ただ、それくらいの作家たちと比肩できる作品ではあって、4点なのはミステリとして評価したから。
『ミレニアム』はスウェーデン版の映画でも見た「1」が、とても面白かったので「2」まで一気読みしたが、「2」でちょっとテンションが落ちた。ちょっと前に読んだジェフリー・ディーヴァーもそうだが、「驚き」はヴィジュアルやアクションで表現したい、という欲求があるのかな、と思う。
深町秋生の『バッド・カンパニー』は好きな作品。軽めのアクションという意味で、漫画の『バイオレンスアクション』や『今日からヒットマン』とかに通じるものがある。
『ローズガーデン』は村野ミロものの短篇集。表題作がイマイチだったので3.5にしたが、他の作品は良かった。
『Aではない君と』は加害者家族の立場に立った作品で、ヒリヒリする感情とともに一気読みしてしまうパワーがある。3.5は辛いのだが、真相がちょっとそれでいいのかしら、と思うところがあったので。
『暗幕のゲルニカ』は話は魅力的なのだが、とにかく説明が長かった。この点、『ミレニアム』などはやはり説明を面白く読まさせくれるので、そこに違いがあるかと思う。
五十冊超えたので、自分ランク順に全部並べてみよう。並べてみたらこれまで漏れていたものも見つけた。。。
(星5)『錆びた滑車』『OUT』『高い窓』『満願』『静かな炎天』(星4.5)『カーテン』『春にして君を離れ』『涙香迷宮』『私が殺した少女』『リトル・シスター』『五匹の子豚』『ブラック・ダリア』『さらば長き眠り』『さよならの手口』『ブラウン神父の童心』『ノックス・マシン』『オーダーメイド殺人クラブ』(星4)『さむけ』『戦場のコックたち』『ミレニアム1』『神様ゲーム』『スタイルズ荘の怪事件』『刑事マルティン・ペック 笑う警官』『アリス殺し』『天使のナイフ』『折れた竜骨』『バッド・カンパニー』『マネーロンダリング』『鍵のない夢を見る』『果てしなき渇き』『ボーン・コレクター』『生ける屍の死』『檻』『古書店アゼリアの死体』『ビブリア古書店の事件手帖 栞子さんと奇妙な客人たち』(星3.5)『ローズガーデン』『Aではない君と』『11/22/63』『プレイバック』『教場2』『その可能性はすでに考えた』『首無しの如き祟るもの』『メーラーデーモンの戦慄』(星3)『秋季限定栗きんとん事件』『人間の顔は食べづらい』『八月の降霊会』『暗幕のゲルニカ』(星2.5)『ミレニアム2』『真実の10メートル手前』『ヴィラ・マグノリアの殺人』
ミステリをたくさん読む(7月)
ひたすらに雨が降り続いた7月。だんだんと憂鬱になり、活字も頭に入ってこなくなる。ラスコーリニコフを狂わせたのも、ペテルブルクの寒さでも暗さでもなくて、湿気だったなあ、と思う。
読んだ量は多く見えるが、スティーヴン・キングはゴールデンウィークくらいからだらだら読んでいたもの。
アガサ・クリスティー『五匹の子豚』(クリスティー文庫)★★★★☆
スティーヴン・キング『11/22/63』(文春文庫)★★★☆
ランキングが固定化してきたので、自分の中でのオールタイムベストを少しずつ投入することにした。そんなわけで、桐野夏生『OUT』。四人の主婦たちにまつわる生活と金額の、圧倒的なリアリティと、19世紀文学の登場人物にも匹敵する雅子の存在感。何度読んでも名作。最初に読んだ学生の頃には、「裏社会の描写がステロタイプ」というような批評に腹を立てていたが、今読めばそれは的を射ているかも。
クリスティーの『五匹の子豚』は章立ての時点で容疑者が五人に絞られていて、それでもなお真相に意外性があるという、綺麗な作品。現代ミステリを読んでいて、結末がなんだか自信のない感じだったりするのが、この終わり方は素晴らしい。
そして北方ハードボイルド初読み。冒頭のスーパーの縄張り争いの話がシャープに記憶に残り、後半、少しプロットがこみいってからもキャラが立っていて読みやすい。
キングの『11/22/63』は、冒頭のダイナー経営者が1日で10キロ痩せる、というくだりがキングっぽくて大好きだったのだが、中盤後半やたら長くて大変だった。タイムパラドクスに対する配慮も、面白いんだけれどこれ『タイムパトロールぼん』で見たなあ、と思うと、藤子先生の偉大さばかりが際立つ。
『ヴィラ・マグノリアの殺人』は、若竹作品にしては期待はずれ、というか、人物関係が入り組んで、覚えるの大変だったのにこのオチかい、というところがキツかった。
これでちょうど年始から40冊。ベスト10はこんな感じ。
『錆びた滑車』
『OUT』
『満願』
『静かな炎天』
『春にして君を離れ』
『涙香迷宮』
『私が殺した少女』
『五匹の子豚』
『ブラック・ダリア』
『さよならの手口』
ミステリをたくさん読む(6月)
30年間つきあった差し歯が根元から折れ、前歯を抜く羽目になった。親知らずを抜いた時にも、そこそこの感慨はあったが、仮にあれは抜くことが当たり前の部分だったとすれば、最後まで使うつもりだった自分の一部を失うのは、これが初めてのことになるのだ。
だからと言うわけでもないけれど、読書も低調。ミステリは4冊しか読めなかった。
原尞『私が殺した少女』(ハヤカワ文庫)★★★★☆
若竹七海『八月の降霊会』(角川文庫)★★★
ランキングがハードボイルド、しかもチャンドラーと若竹七海に偏ってきたので、出来るだけ初読みの作家を入れていこうと思ったのだが、結局ハードボイルドが一番上に。おそらくこれは様式美の問題なのだろう。
私は上衣のポケットを探って新渡戸稲造を一枚見つけると、バーテンダーの指が栞代わりをしている文庫本のページに差し込んだ。
「きみへのチップだよ。『悪霊』も読みたまえ」
「どうも、恐れ入ります。失礼ですが、これは坂口安吾ですので−−」彼は顔色ひとつ変えなかった。プロはそうあるべきだった。
私はすでに酔いが醒めていたが、今夜の私にはプロとしての自覚があったとは言いがたかった。(『私が殺した少女』 147−148ページ)
ひたひたひたっ……
それが井戸の側からこちらへと、自分の方へと向かって来る気配を感じ、背筋にぞっとする震えが走った。
(ああっ……い、厭だ……来るな! あっち行け! 来るなぁ……)
大声で叫びそうになるのを、何とか必死に堪える。この木の裏に隠れていることを、まだそれには気付かれていないかもしれない。なら、わざわざ自分から知らせる必要はない。そんな冷静な判断をする一方で−−(『首無しの如き祟るもの』 121−122ページ)
今回、原尞と三津田信三に一点差をつけたのは、このどちらの描写を好むか、という話ではある。トリックを中心にミステリを読むならば、『首無しの如き』の方が優れているのは間違いない。ただ、このランキングの一貫した基準として、小説としてのプロットの面白さ、ということは持っておきたいと思う。
他の二冊について。『教場2』は前作のホラーめいた心理描写を期待していたのだが、若干やわらかめの内容だった。『八月の降霊会』は、やはりちょっとプロットがきつかった、と。
『錆びた滑車』
『高い窓』
『満願』
『静かな炎天』
『春にして君を離れ』
『涙香迷宮』
『私が殺した少女』
『ブラック・ダリア』
『さよならの手口』
『ブラウン神父の童心』
ミステリをたくさん読む(5月)
ナボコフは読み始めたところでGWが終わり、終わるとちょっとストレスに弱くなって、難しい本は読まなくなった。じっくりと文学に取り組む時間はやってくるだろうか。
今月のミステリは6冊。年始から累計31冊読んだが、結果として趣味が偏ってきた。
若竹七海『さよならの手口』(文春文庫)★★★★☆
レイモンド・チャンドラー『リトル・シスター』(村上春樹訳、ハヤカワ文庫)★★★★☆
レイモンド・チャンドラー『プレイバック』★★★☆(村上春樹訳、ハヤカワ文庫)
白井智之『人間の顔は食べづらい』★★★(角川文庫)
一人称視点で全てを語るハードボイルドの魅力は、つまるところ主人公の怒りだと思う。巻きこまれ体質でおせっかいな葉村晶の怒りが、やはり好きだ。『さよならの手口』の怒りは、『錆びた滑車』で語られたものに比べれば、幾分直截的なものだったが、それでも久方ぶりに感情移入できる探偵である。
ひょっとしてこれもハードボイルドの魅力なのかと思うのだが、レイモンド・チャンドラーの小説は、わりとキャラ萌え小説である。確かに屈折した物言いで「卑しき街を行く騎士」と守られる少女、とか実にラノベ的。さらに村上春樹訳だとその要素に拍車がかかるように思う。『リトル・シスター』のオーファメイはヤンデレ、『プレイバック』のヒロインも結構なツンデレ。ハードボイルドと萌えの影響関係について、どこかに論文ないですかね?
『神様ゲーム』は読み終わってから興奮する、という変わった小説。誰もが読んでから他の人の解釈をネット検索すると思うが、思ったより良い解釈が見つからなかった。やはり結論にちょっと無理があったのかと思い、少し低めの点数に。
『アリス殺し』も夢と現実がリンクする、トリッキーな構成。アリス調の会話文は見事だったし、解決篇はスリリングであったものの、中盤少しダレたかも。
『人間の顔は食べづらい』はホラー的な恐ろしさを期待していたのだが、グロい謎解きだった。ただ、謎解きにあまり関心しなかった。
そんなわけで、年間ベスト10を更新。点数と若干の矛盾はありますが。
『錆びた滑車』
『高い窓』
『満願』
『静かな炎天』
『春にして君を離れ』
『涙香迷宮』
『ブラック・ダリア』
『さよならの手口』
『ブラウン神父の童心』
『ノックス・マシン』
小山田浩子『工場』
仕事に身は入らないし、大体身が入ったところで大差はない単純作業なのだが(あらためて考えると、この作業を誰かにさせるために余分に賃金を払おうという工場の考えは酔狂だ。機械でも開発するがいい)、それでもあまりぼーっとしていると逆に辛くなってくる。何だか自分と労働、自分と工場、自分と社会が、つながりあっていないような、薄紙一枚で隔てられていて、触れているのに触れていると認識されていないような、いっそずっと遠くにあるのに私が何か勘違いをしているような、そんな気分になってくる。(127ページ)
不条理文学の魅力は、できるだけ真剣にロジックを追おうとして、ミッシングリンクにつきあたり、宙に放り出された時の、そのなんとも言えない浮遊感だ。無論カフカにもあるし、昨今ではイシグロがその名手と言えるだろう。
ただ、この作品は、どうやらロジックが繋がっている。中途半端に不条理っぽいだけの作品であれば、そもそもそ真剣に筋を追う気にもなれないが、ノートをとって読ませるだけの魅力が、小山田浩子「工場」にはあった。
以下、がっつりネタバレする予定なので、ネタバレしたくない人はここで読むのを止めてほしい。
物語は語り手その一、牛山佳子がハローワークの紹介で「工場」の面接に行くところから始まる。面接官は印刷課分室の長と思しき後藤であり、正社員の面接に来たつもりの牛山は、体良く契約社員として採用され、シュレッダーで書類を裁断する仕事をするようになる。
17ページからは語り手その二、古笛が登場する。彼はどうやらオーバードクターの研究者なのだが、指導教官の紹介、というか命令で「工場」の屋上緑化とコケの分類の仕事をすることになる。なぜか住みこみで。彼については、入社五年目で広報企画に所属する後藤が指導役らしい。しかし、古笛にはなんの仕事も与えられず、年二回の「コケかんさつかい」だけを延々主催することとなる。
32ページから語り手その三が登場して、しばらく名前が明かされないのでややこしいが、これが牛山の兄である。SEをやっていた彼はリストラにあい、派遣会社の正社員をしている彼女の紹介で「工場」の派遣の仕事にありつく。彼の仕事は、何だかよくわからない工場の社内文書の校正だ。
まずは「工場」が街よりも大きい、という設定であったり、謎の黒い鳥がそこらじゅうを飛び回っていたり、何よりも語り手たちがほぼ無意味な仕事を延々やっているという、王道すぎる不条理文学の展開に、ほとんど萌える。そこはかとないプロレタリア文学の匂いもポイント高い。
しかし、この時点で分かり易すぎるくらい矛盾点が見えている。つまりはこの物語の「いかれ帽子屋」ウサギに相当する後藤は、牛山(妹)に対しては印刷課分室の管理職であり、後藤に対しては広報企画課の先輩社員だということだ。時間軸が違うのではないか、とぼんやり思っていたら、案の定、後半に後藤の手によってネタバレがあり、古笛の入社は十五年前であることが分かる。
大体、時間軸を混乱させているのは、古笛の頻繁すぎる回想で、68ページで老人とその孫が住所兼仕事場を訪ねてきてからは、彼もほぼ牛山兄妹と同じ時間軸にいるのだが、彼はたちが悪いことに、スペースを空けずに回想を入れる。というか、むしろ回想に現在時を挟む形で回想している。これによって読者の混乱が狙われているのは明らかがだが、作者は律儀に鍵をそこら中に置いてあるので、これくらいならパズルを組み立てるように時間軸が整理できる。
面白いのは三人の語り手全員の語りに登場する人物はいないのに、二人の語りに登場する人物は沢山いることだ。全部に登場してそうな後藤は牛山(兄)の語りには登場しない。兄の恋人は兄弟の語りには登場するが、正社員の古笛には関係ない人である。牛山(兄)と同じ校正の仕事をやっている入野井さんは、どうやら元は工場企画にいたらしく、入社間もない古笛が後藤に電話をかけた時に応答するのが、「イリノイ」という人だ。そして、極めて重要な「工場の生き物の観察」を書いた小学生、寒川光の祖父寒川は、古笛の住居を訪ねるだけでなく、牛山(妹)のシュレッダーチームのリーダーでもある。
つまり、この三者が同じ世界に属していることを証明してくれる人は誰もいない。ただ、これがイシグロの小説ならば、顔の見えない人物がぽっかり空いた穴に見える、というような感覚をもたらすところだが、どうにもこれだけ状況証拠が固まっていると、証人がいなくてもこの世界は地続きであると考えても良いのではないか? 宙に浮いたような感覚はない。しかし、地面が硬いということは必ずしも読者に安心感をもたらすものではなく、むしろ私は、広大な迷宮のような工場から永遠に出られないような感覚を覚える。
その閉塞感の中でのラストシーン。牛山(妹)が黒い鳥となって飛び立つシーンが妙に清々しい。これは、本格不条理小説の名作である。
(『工場』新潮文庫、初出 2010年)