21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

K.イシグロ『忘れられた巨人』 第九〜十四章

わたしが見てほしいところ、まだ見てくれていないんじゃないかしら、アクセル。(第十三章)

 第三部、第九章と十四章は「ガウェインの追憶」と題されていて、ここだけ一人称の語りになっている。そして、アングロ人とサクソン人の間には、血で血を洗う戦いがあったこと、そして、ガウェインとアクセルは、その戦争に勝つために、サクソン人の女子供を虐殺した当人であったことが語られる。アクセルにいたっては、サクソン人との間に和平協定を結んでおきながら、それを破棄した当事者であるらしい。
 そうしてみると、これまでアクセルのほうはサクソン人の言葉を話せなかったのに、妻ベアトリスはすらすら話していたことの説明もつく。それはアクセルにとって、もっとも忘れてしまうべき記憶と結びついていたから隠蔽されたのであり、ベアトリスにとってはさほど隠蔽する必要のない事項だったのである。
 このあたりで、アクセルとベアトリスの愛のベクトルは異なっていることが明らかになる。ベアトリスは二人の記憶を失ったまま死ぬことが耐えられず、記憶を取り戻そうとしているが、アクセルはあくまで自分の過去を隠蔽するモチベーションが強い。そうするとアクセルの方が冷淡なようであるが、彼の方は「隠し通す」、もしくは「見て見ぬフリを通す」ことによって愛を完遂することが目的である。そのことは第十一章の、川の小妖精に襲われる場面によく出ているだろう。

「呪われろ」アクセルはそうつぶやき、前進を続けた。「絶対にベアトリスはあきらめない。絶対にだ」
「あなたは賢明なはずだ、旅の人。女を救える治療法などないことは、もう以前からわかっているのだろう? どう堪える? 女にはこのさき何が待つ。いずれ最愛の妻は苦しみにのたうち、あなたはそれを見ながら、やさしい言葉をかける以外に何もできない。女をわれらに任せないさい。苦しみを和らげてあげよう。これまでも大勢にやってあげてきたように」
(第十一章)