21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

K.イシグロ『忘れられた巨人』 第六〜八章

 ネットで英語の書評をいくつか読んでみたのだけれど、この作品を「失敗作」と見る向きも結構あるようですね。正直なところ、一読しての私の感想も、すげー読みにくい上に、結論がけっこう安易じゃね?というところ。それが実態として正しい感想なのか、それを確証したい、というのがこの一連の記事の動機なのです。
 ひとつ気になるのは、この作品の戦闘シーンがわざとか、ってくらいエキサイティングでなく書かれていることです。たとえば第五章の灰色の神の兵士とウィスタンの決闘などが、その典型ですが。そんなへんをキーに、読み直しを続けていこうと思います。

あのときアクセルは馬上にいた。すぐ前に、やはり馬に乗った同僚がいた。名前はハービー。その肥満体から放たれる体臭は、馬のそれをも圧倒する。二人は遠方に何かの動きを認め、風の吹き渡る荒れ野の真ん中に立ち止まっていた。(中略)アクセルと馬が占めたこの位置は、本来なら羊飼い四人と群れの大部分が通っていくはずの場所だ。鼻面を並べたと言っても、ハービーの馬よりわずかに後ろに位置し、これで同僚がわずかでも優越感に浸ってくれれば、とも願った。大事なことは、自分がいま羊飼い一行の盾になっているということだ。(第六章)

 思い起こせばイシグロは、主人公の目的意識や語りでポイントをズラすことによって、うまく読者の感情移入を「上滑り」させる作家だった。『日の名残り』の執事スティーブンスは、ひとくちに言えば「何をしたいのかわからない人」で、かつて恋心を抱いていたミス・ケントンからの手紙を頼りに彼女を訪ね、女中頭としての復帰を促すのが、旅の目的であったはずだが、ミス・ケントンは復帰を望むと手紙に書くどころか、仄めかしてすらいないのは、スティーブンス本人も認めるところである。また、かつての雇い主ダーリントン卿が、大戦中にナチス・ドイツの協力者であったことは、隠しておきたいのが本音であるはずなのに、一方で聞かれもしないのにべらべらしゃべっている。
 ただ、一方でイシグロは「見せる」シーンはあざといまでに美しく見せていた。新しい雇い主のアメリカ人、ミスター・ファラディのためにアメリカン・ジョークがわかる人になろうと悪戦苦闘する様は、声出して笑ってしまいそうになるし、彼の年老いた父をめぐるミス・ケントンとのエピソードでは、うっかり涙してしまいそうにもなる。言ってみればイシグロのかっこよさは、読者を自在に笑わせたり、泣かせたりしながら、最後の一点で感情移入を拒否してシレっとしているところにあったのだろう。
 それが、『忘れられた巨人』では、「見せる」シーンがイマイチなのである。あるいはこれは、一段階格調高いレベルに作品を持っていっているのかも知れない。だが当然、「そんなことする必要あるのか?」とも思うので、その辺を検証しよう。
 前回も書いたが、この物語のテーマは「隠蔽」である。たとえば『日の名残り』でも、スティーブンスを「信頼できない語り手」であるとしてしまえば、「隠蔽」がテーマだったと言えなくもないのだが、『わたしを離さないで』までのイシグロ作品では、「隠す」ベクトルよりも「露見する」ベクトルの力のほうが強く(つまり、聞いてもいないのに言ってしまう人や、知らなくてもいいのに探してしまう人が主人公なので)、どうしても見えてきてしまうものを、必死で見て見ぬフリをする、というところに焦点があったと思う。
 ところが本作では、「忘却の霧」という強力なギミックがあることで、いままでの作品と比べ、勝手に露見してこようとする真相を押さえつける力が強い。虐殺にまつわる「真相」がほかの作品よりも重い、ということも言えるかも知れないが、『わたしを離さないで』の真相だってそれなりに重いものが、100ページも読み進まないうちにバレバレになってしまうのに比べれば、物語の中盤、第七章になってはじめて浮かび上がってくる本作は、やはり「隠す」ほうの力が強いと言えるだろう。
 ひとつ確実に言えることは、この物語は三人称で語られている、ということである。『日の名残り』、『わたしたちが孤児だったころ』はもちろん、『わたしを離さないで』や『充たされざる者』でも一人称で書かれていたのに。そうしてみると、これら一人称の作品が、「見て見ぬフリをしながらも、自分について語らないで入られない人たちの物語」であったのに対し、『忘れられた巨人』は、「第三者によって隠された真実が暴かれる物語」であると言えるかも知れない。

「何が言いたい。頭蓋骨だと? 頭蓋骨などわしは見ておらぬ。古い骨が二、三本あるからといって、それがどうした。おかしなことなのか。尋常ならぬことなのか。地下ならば当然であろう。骨の寝床などわしは見ておらぬぞ。何が言いたい、アクセル殿。そなたはあそこにいたのか。偉大なるアーサー王とともに立ったのか。わしは立ち、それを誇りに思う。(中略)ほかにどうしようがあった。聖なる男どもの心がどれほど黒くなれるか、最初から知っておけと言うのか?」(第七章)