21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

K.イシグロ『忘れられた巨人』第十五〜十七章

来るなら来い。来るがよい。お忘れか、アクセル殿。わしはあの日、貴殿と会っておる。貴殿は耳に残る子供や赤子の泣き声のことを語った。わしもそれを聞いたよ、アクセル殿。だが、あれは命を救う医師の天幕に上がる叫びと同じたぐいのものではないのか。治療が苦痛をもたらすこともあろう。わしもまた、この身に従ってくれるやさしい陰を望んだ日々があった。認める。いまでも、影がいることを願って振り返る。すべての動物も、空を飛ぶ鳥も、やさしい連れ合いを求めるもの。わしにも、この年月を喜んで捧げてもよいと思った一人二人はいる。(第十五章)

 アクセルとベアトリスの二人のあいだに横たわる、忌まわしい記憶とは、ベアトリスの不倫がきっかけで、二人の息子が出て行ってしまい、二度と二人のもとに戻らなかったこと、そして、アクセルがベアトリスに、その息子の墓参りを禁じたことだった。この、謎解きの部分を最初に読んだとき、ベアトリスがアクセルを裏切った理由を、アクセルが戦争において行ったサクソン人への裏切りと、虐殺のことだと私は思っていた。だが、よく考えてみると、戦争のあとはクエリグの忘却の霧で、すべての忌まわしい記憶が封印されているしだいで、アクセルの残酷な振る舞いの動機も、そもそもベアトリスを不倫に駆り立てる理由もなくなってしまう。
 と、いうことは、夫婦の間に罅が入ったのは戦争の前で、アクセルがサクソン人を偽りの和平によってだまし、それが意図的だったかどうかはわからないが、最終的には非戦闘民の虐殺という行為に加担してしまったのは、すくなくとも家族を失ったあとであることが分かる。よくよく読み返すと、十五章でガウェイン卿が、アクセルはアーサー王を振り捨てて、「その身のすべてを・・・よき妻に捧げた」というとき、アクセルは雌竜クエリグを使った忘却の霧の魔法に加担せず、忌まわしい記憶を背負ったままで、いちどは捨てた家族のところに戻っているのだ。
 そうすると、これまで私はアクセルのことを、「隠蔽」への加担者として考えていたが、必ずしもその評価はあたらないのかも知れない。いや、いちど忘れてしまってのちは、その状況に安住しているとも言えなくはないのだけれど、上に引用したガウェイン卿の無理矢理な自己正当化などに比べれば、罪を自分のもとに引き受けようとしたことがある、とは言ってあげてもよいのだろう。
 ところで私にはこの小説でいまだに気になっている部分がある。まずはガウェイン卿を訪れる「黒後家」のイメージである。この女性たちについて、戦争の被害者なのかと思っていたのだが、彼女たちは雌竜によって記憶を失ってしまったことをガウェイン卿にクレームしているので、どうやら戦後も生きていた人なのである。彼女らがガウェイン卿のもとを訪れる理由が、「いつまでも雌竜を倒してくれないから」というのは、すこし動機として弱いように思う。ここで、極端にゴシップ誌的な仮説を立てるとすると、この黒後家、もしくはそれと同様の者として作中に出てくる「黒衣の女たち」は、すべてベアトリスの姿で、かつてのベアトリスの不倫の相手はガウェイン卿だったのではないか? 
 もうひとつは、第一章でアクセルが言っている、「病気を治してくれる赤毛の女」で、これの正体が今もって分からない。一回目を読んだ時は、息子が疫病で死んだ時に訪れたのかと思ったのだが、どうもエピローグによれば息子は父母の元を離れて死んでいるわけで、なんのためにこの女は登場したのだろう、というのがどうにも気になる。