21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

飛浩隆『グラン・ヴァカンス』

「決めろ。『しかたがない』ことなど、なにひとつない。選べばいい。選びとればいい。だれもがそうしているんだ。ひとりの例外もなく、いつも、ただ自分ひとりで、決めている。分岐を選んでいる。他の可能性を切り捨てている。泣きべそをかきながらな」(第九章 ふたりのお墓について)

 経験が量的に豊かであればいい、という考え方に対しては、なんとはなしの違和感があるのだが、一方で、たとえばこうしてSFを読みはじめたら、もっと面白い本はないかと沢山読みたくなるわけで、ある種それが自分にとっても生の原動力になっていることは否定できない。ただし、無闇やたらと色んな街を訪れてみれば、それぞれの印象は薄まることは確かだし、経験の総量を高めることに全力を注げば、それは、できるだけ沢山の異性と寝てみたいとか、挙句の果てには人を殺してみたいとかいう傍迷惑な境地に達するようにも思う。
 人間が自分の分身を送り込むために設立された仮想リゾート「数値海岸」に設定された「夏の区界」では、千年前に起こった「大途絶」以来、ゲストとして一人の人間も訪れることなく、キャラクターであるAI達が永遠の夏休みを送っている。だが、ある日、存在を消滅させる「飢え」を持った蜘蛛たちと、蜘蛛の支配者ランゴーニが「夏の区界」を襲う。家族を消された主人公的AI、「天才」少年ジュールと「性的な抑制が壊れている」少女ジュリー、そして区界の住人達は、区界の事物に物理的限界を超えた変化を与える「硝視体」を武器に、蜘蛛たちに絶望的な戦いを挑んでいく。
 と、いうのが『グラン・ヴァカンス』のあらすじなのだが、この物語は丹念に「設定」された物語が消されていく、ということに軸があると思う。ゆえに消す側のランゴーニはわりとどうでもよく、消される側の町の住人の方が実に丹念に設定されている。区界を訪れるゲスト達は、基本的には実にはしたない経験をするためにこののどかな海辺の町を訪れていたらしいのだが、彼らはジュール、またはジュリーの父として、あるいはもう一人の重要なキャラクターであるジョゼを訪れる女として、彼らの記憶にトラウマを残していく。しかし、永遠に12歳と16歳のままであるジュールとジュリーは、不変の同じ季節を永遠に繰り返しており、本来、「設定」として与えられた以上のトラウマは必要ないはずなのだが、この世界では「成長」はないのに傷痕だけは容赦なく積み重なっていくところがポイントである。ゆえに、多くの登場人物が記憶ごと消されてしまったあとには、AIたちの感覚が鋭敏になる(=世界そのものが鮮やかになる。オレンジジュースがあんなにおいしかったんだもの)、という恐ろしい事態が起こる。
 後半戦、ランゴーニはこの先鋭化された痛覚を武器(というかなんというか)にして、残された数少ない登場人物たちを襲うのだけれど、ここには、経験が苦痛として立ちあらわれるとき、それを分かち合う感覚主体は多いほうがよい、という「共苦」の考えと、たとえスタンドアロンで莫大な苦痛を浴びることになろうと、おのれの経験は自分で選びとれ、という意志の強さがじつにアンビバレンツな感じで混ざりあっているように感じる。
 なんかややこしいことを書いたが、実に小説として面白い本です。

(『グラン・ヴァカンス 廃園の天使Ⅰ』 ハヤカワ文庫JA