21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.ボードリヤール『シュミラークルとシュミレーション』 1章「シュミラークルの先行」

領土が地図に先行するのでも、従うのでもない。今後、地図こそ領土に先行するーーシュミラークルの先行ーー地図そのものが領土を生み出すのであり、仮に、あえて先のおとぎ話の続きを語るなら、いま広大な地図の上でゆっくりと腐敗しつづける残骸、それが領土なのだ。帝国の砂漠にあらずわれわれ自身の砂漠に点在する遺物とは、地図ではなく実在だ。実在の砂漠それ自体だ。(2ページ)

 バラードの『人生の奇跡』を読んでから、この世にあふれているのはモノではなく記号だ、という感覚について、微妙な違和感を覚えていたので、そういう感覚のご本尊と思われるボードリヤールの本を読んで批判しようと思ったのだが、なんだかご本尊の考えていることはもっと悲観的であるらしい。曰く、「表現(レプレザンタシオン)に必要なあの空想」まで、シュミレーションによって消えてしまった、ということだ。ちなみに、この言葉の数ページあとでおなじ「レプレザンタシオン」は「表象」と訳されているが、これは記号と実在が等価であることに基づいているということなので、イコンの対局に神が実在しているというようなことだ。帝国、神、権力、ディズニーランド、民俗学、病気、というような現在においてシュミラークルでしかないとされているもののリストをつらつら眺めていると、どちらかというとボードリヤールの問題意識は実在そのものではなく、その生産にあるのではないか、と思える。つまり、頭上を飛ぶアメリカ軍の飛行機の記号性に衝撃を受けたバラードが、どちらかというとその完成されたモノ自体に注目しているのに比して、ボードリヤールはつくりだすという過程があらかじめパロディでしかなく、そのうえで参照されるものがすでに実在していないことに注目しているのだ。
 ちなみに物については7章「ハイパーマーケットとハイパー商品」でこう言っている。

物はもはや商品ではない。というのは、物は人が解読したり、その意味やメッセージを手中に収めてきたような記号そのものでもなく、それらはテストであり、物こそわれわれに問いかけ、われわれはその問いに答えるように義務づけられ、その答えは問いの中にある。

 ここで語られているのもやはり出来上がったものではなくて、それを生産する作法(なんかマーケティングをイメージしているように思える)や、それを買う、という行為の方だろう。物は商品ではなくテストだ、というのはメタファーとしてとても正しく響くのだが、しかしここでどうしても出来上がってきているモノの方が無視されているように思えてならない。平たく言えば、成立過程がどうあれ物は物とちゃうの?という直裁的な疑問が抑えられないのだ。つまりディズニーランドがアメリカの幸福な家庭生活のパロディで、その実在としてのアメリカの家庭はもう無くなってしまっているとしても、私の目にはどうにもディズニーランドそのものがすでに実在しているように見えるのだ。戦闘機に対するバラードの感嘆を読んで思ったのは、商品が記号でなかった時代を知らない私たちと、知っている人たちの世代的な問題なのかな、ということだったが、この本を読んでいて、ひょっとすると問題は「生産」への情熱の違いにあるのではないか、と思った。

(『シュミラークルとシュミレーション』 竹原あき子訳 法政大学出版局2008年新装版 原著1981年)