21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.G.バラード『人生の奇跡』 第八章「アメリカの空爆(一九四四)」

迫りくる米軍機の機影は、わが思春期の憧れにあらたな焦点を結んだ。頭上、地上三十メートル足らずの低空を電光石火で飛びすぎるムスタングの姿は、あきらかにこれまでとまったく異なるテクノロジーの論理にのっとっていた。エンジンのパワー(英国で設計されたロールスロイス=マリーン・エンジンだと後に知った)、スピードと銀色の機体、高貴なる飛翔姿勢は、はっきりと日本のゼロ戦大英帝国のニュース映画に登場するスピットファイアやハリケーンとは異なる、はるかに進んだ世界に属していた。アメリカの航空機は<ライフ>や<コリアーズ>の広告ページから飛びだしてきたもの、流線型のキャデラックやリンカーン・ゼファー、冷蔵庫やラジオとおなじ消費者精神の体現であった。ある意味ではムスタングやライトニング自身が広告だった。アメリカン・ドリームとアメリカのパワーを宣伝する時速六百キロの広告塔である。(87-88ページ)

 過去をおもいだして自伝なるものを書くとき、人がどんな小道具を登場させるのか、それはある種その人のアイデンティティを表明しているのかも知れない。少年バラードが、上海に生まれ、日本軍の侵攻ののちは郊外の収容所で暮らした時代までをえがく第一部、およそ100ページほどで気になるものは、自転車、いつも酔っぱらっている両親とその仲間たちの拠りどころである、ジンとウィスキーに満ちた食器棚、そして、収容所内で各所にあらわれる「カード・テーブル」といったところだ。およそ人間について忘れてしまえば、人間ではいられないことを考えれば、回想のなかの小物にその人となりがあらわれることも不思議ではないかも知れない。
 上海のイギリス人の家庭で、中国人や白系ロシア人の使用人に囲まれて育った英国少年のまわりにあって目立つものは、おびただしいアメリカンコミック、そしてイギリス製よりも、<ライフ>や<タイム>といったアメリカの雑誌である。そのきわめつけとして、上記に引用した場面にフォード・ムスタングがあらわれる。これは象徴的にアメリカの時代の到来をあらわしている、というのはあまりに容易いのだけれども、ここで「テクノロジー」という、ある種SFのギョーカイ用語が登場していることがどうしても気になった。
 テクノロジーに関して、これまで読んだいくつかのSFで描かれていることが、どうしても私にはぴんとこないのだが、なんだかこのワンシーンで、つかむ寸前まで言っている気がする。『楽園への失踪』でも描かれているが、ようするにバラードにとって「テクノロジー」とは、空気あるいはその中に蔓延している病原菌のようなものではないか。病原菌とか書くと、too negativeに聞こえてしまいそうで怖いが、それは偏在し、感染性をもち、一種の流行という流れをもっている、という点で遠くないように感じる。豪快にむちゃくちゃなことを書けば、ニール少年にとって、核爆発による放射能汚染と、ドクター・バーバラは同様の存在で、それらは同時に「テクノロジー」だったのではないか、ということだ。と、するとバラード少年にとってアメリカは、「テクノロジー」であり、同時に病原菌だったのではないか。
 ここでまた、「テクノロジー」をその時代に支配的なものの考え方と、その根拠となる技術、とすると、バラードを読む上では単純すぎるように思う。(そういえば、前回の古井由吉もそんな話だったな)。あくまでそれは病原菌か放射性物質のような、蔓延しているにしろ個の上で破滅的になる要素なのだ。

(『人生の奇跡 J・G・バラード自伝』 柳下毅一郎訳 東京創元社