21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

船戸与一『山猫の夏』

 舞台はブラジル北東部の町、エクルウ。この町は100年のむかしから、アンドラーデ家とビーステルフェルト家に支配されてきた。町の権益をめぐり、血で血を洗う抗争をくり返す両家。だが、ある夏の日、アンドラーデの一人息子フェルナンと、ビーステルフェルトの長女カロリーナが失踪する。二人は敵対の歴史を超えて、愛し合う仲だったのだ。
 物語はこの灼熱の町でバーテンをする「おれ」のところに、「山猫」と名乗る謎の日本人があらわれたところから始まる。ビーステルフェルト家に雇われて、娘の追跡を請負った山猫と、なかば強制的に助手にされてしまった「おれ」。アンドラーデ家の追手も加わり、追跡劇は苛烈さを極めていくが…

 もう、ちょっと前のことになってしまうが、船戸与一さんが亡くなられたので、中高生のころ熱狂した『山猫の夏』を再読。息もつかせずページをめくらせる筆力は流石と思う、のだが、20年もたった中年の目で見てみると、この作品のプロットって「用心棒」のオマージュなのだな、と気づく。しかも、「用心棒」のパロディとしては、敵対勢力の間を渡りあるく主人公の姿がちょっと無理矢理で、あまり上手く行ってないのではないか。あの説明でアンドラーデは復讐を誓うか?
 よく言われることではあるけれど、冒険小説のキャラクターはあまり人間味がなく、どちらかというと「ヒーロー」とか「チンピラ」とか「因業ばあさん」とか、ハンコ絵的になってしまいがちだ。この小説はその最たるものだろう。すべてのキャラクターは、「型」にはまっていて、自意識や個性に沈滞したりはしない。粛々と、悪党とか英雄とか傲慢な金持ちとか、自分に与えられた役柄を演じている。そしておそらくは、そのことによって、読者を圧倒するような「流れ」を生み出している。
 そもそも群像劇とは、群れとなる個々の貌をひとつひとつ描くべきなのか。この作品において個人は、役柄を演じるだけののっぺらぼうのようにも感じられるが、だれもが一律、カネのにおいに敏感なエクルウの町の住民として、ひとつの個性を持っているだろう。あらためて読み返して感じたのは、ダイナミズムを発生させるための無駄のなさである。たとえば語り手である「おれ」の成長が、もっと綿密に描かれていたとして、この作品の魅力を高める結果にはなるまい。
 群像を、群像のまま書いた作品として、小説そのものの表情を出すために、作中人物は、あえて典型として描かれているのだ、というのは言い過ぎだろうか。だとしても、濃いめの演出が続くこの作品を、ぐいぐい読ませる原動力のひとつが、シンプルさ、であることは確かだろう。

(『山猫の夏』 講談社文庫 1984年)