21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

夏目漱石 前期三部作

 きのう漱石の「猫」について、じぶんで書いたものを読み返してみて、よい小説というのは運動の線がつながっているのではないか、と考えた。つまり猫は、餅を食って後脚で立って踊るわけであるが、この部分の運動の流れが実に鮮やかである。このあと猫は、台所から外へ出て、近所の三毛子をたずねて、これまた有名な「天璋院様の御祐筆の妹の・・・」のくだりになる。この移動がスムーズだ。へぼい作家だと、書きたい場面はあるのだが、場面と場面のつなぎがなく、点と線のミステリーが、点と点のミステリーになってしまったりするが、猫は路地だか塀だかをあるいて、猫のペースでゆっくり次の場面へ行く。少し注意して読んでいくと、ひとつの動きからひとつの動きへ直接繋ぐのではなく、その度に猫が立ち止まって、周りを見回すから、場面が変わる違和感がないことに気づくだろう。まるで映画のようだ。この時代、映画はなかったが。
 さて、長らく更新を休んでいる間に、漱石の前期三部作も読んだので、映画の比喩を引きずりながら、この三作についても考えてみよう。そうしてみると『三四郎』というのは不思議な作品で、「猫」よりも後に書かれているわりに、場面の転換においてはかなり稚拙な印象をうけるのだ。そもそも論、この小説は実にこなれておらず、読んでいて大分むずがゆい、「ストレイ・シープ」のくだりを思い浮かべるまでもなく、全体になんだかこっぱずかしい。三四郎も美穪子も広田先生も野々宮も、エピソードらしいエピソードだけでできあがったキャラクターで、全体につくりものめいているし、さっきの運動の線の話で言えば、冒頭の列車の場面からして、あまり距離感が伝わらないのである。
 一方、『それから』になると、運動の線はいくぶんしっかりしている感じがする。・・・ただ単に、主人公がひきこもりになっただけかも知れないが。
 たしかに代助は、ほとんど自宅と実家と平岡の家にしか行かないのだが、合間に資生堂によったり、ニコライ堂を眺めたりしてくれるので、生活圏というか、歩く範囲が想像しやすいのである。
 しかしながら、『それから』においては、やはり代助の自意識が主眼であり、風景とその中の運動は添え物である、という印象を拭えない。つまり読者は位置情報だけをふんだんに与えられている、という意味で、初期のファミコンみたいな画面に相対しているのだ。末尾のくすんだ赤が乱打される部分も、好きだけれども、色彩の使い方としてはファミコンっぽい。
 そして、『門』という小説を読んでいると、どうしても小津安二郎を想像してしまう。ニートの代助と違い、宗助は勤め人だが、もう事件は自宅の中でしか起こらない。そのわりに宗助はわりと出歩いていて、ただし位置情報はほとんど与えられない。ここに至って漱石は、地名を言わずとも風景を想像させる自信を持ったのかも知れない。小津を想像させる、というのは、家の中での緩慢なくらいゆっくりした会話ですべてが進んでいく、という点もあるが、色の名前をみだりに用いない、いわばモノクロの画面の中でも、色を感じさせる描写がある、ということ、そして『三四郎』のように人形をおいて遊ばせているのでもなく、『それから』のように主人公に没入するのでもなく、登場人物にたいして一歩下がっているような構図のことだ。たとえば例として、こういう場面はどうだろう。

家へ帰ると、小六は火鉢の前に胡坐を掻いて、背表紙の反り返るのも構わずに、手に持った本を上から翳して読んでいた。鉄瓶は傍へ卸したなり湯は生温るく冷めてしまった。盆の上に焼き余りの餅が三切か四切載せてあった。網の下から小皿に残った醤油の色が見えた。(十七)