21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

夏目漱石『吾輩は猫である』 二

ええ面倒だと両足を一度に使う。すると不思議な事にこの時だけは後足二本で立つ事が出来た。(40ページ)

さて、これは漱石の「猫」が空を翔んだ場面で、日本文学のなかでは随分有名な場面であると思う。要は正月の雑煮を盗み食いした猫が、歯にひっかかってどうしても取れない餅を、両手っていうか前脚で取ろうとして取れない、結果、後脚二本で立ってしまった、ということに過ぎないのだが、どうにも可笑しい。鹿爪らしく語る猫が、一方では尻尾を振ったり耳を立てたりする動きを追っているうちに、後脚二本で立っている、ということが、なんとも実に腑に落ちる。
このシーンは、猫が雑煮の椀の底の餅を眺めているショットからはじまるのだが、実に巧みに読者の視線を誘導している。まず、餅を凝視する場面からして、猫は二度ほど目線をそらす。家政婦や子供が近づいてはくるまいか、あるいはむしろ誰かが見ていて、この得体の知れないものを口にするのを止めてくれないか。二度ほどそう思ってから、猫はおもむろに椀に身体全体を沈め、餅を口にする。
で、もって、猫の歯では餅のようなものは噛みきれないらしく、苦痛に唸る猫の口中に読者の視線は追いこまれる。一度そうやって息苦しさを感じさせてから、今度はおもむろに猫のダンスである。桂枝雀師匠なら、「緊張の緩和」とでも言うだろうか。まあともかく、さくっとおもろい。なにしろ猫が両手を振りながら二本足で歩いている。
そして最後は人間が登場して、猫の痴態をひとしきり楽しんだ後で助けてくれる。この段になると、読者の視線はだいぶ引きになっていて、猫が随分小さくみえる。
読者の視線誘導というようなせせこましいことを、文豪夏目漱石が考えていたかどうかは定かではないが、こうしてみると、実にこの場面よくできている。話芸で情景を想像させる、となると、安易に落語なぞを思い浮かべてしまうが、よく考えると、落語って一人称単数の語りはやらないのではないだろうか。漱石がこの技術をどこから思いついたか、考えたい題材のひとつだ。

(『吾輩は猫である岩波文庫)