21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

田中啓文『蹴りたい田中』

そうだ。喰わねばならない。永遠の美貌に比べればこのぐらいの臭さは屁でもない。薫は小片を飲み下すと、無理矢理大口をあけて、その果実をもうひと噛みした。バターのようなねっとりした食感である。口腔の粘膜にそれが触れた瞬間、再びおぞましいまでの異臭が脳天を直撃した。学生時代、馬鹿な友人数人とノルウェーだかどこだかの「世界一臭い缶詰」というのを試食する会を万博公園で催したことがあるが、この果物の臭いはあの時の比ではない。薫の意志に反して喉と口が勝手に、食べたものを吐き戻そうと動いたが、彼は必死の努力でそれを飲み込んだ。半分ほど食べたあたりで薫は限界を感じた。もうだめだ、臭すぎる。これ以上、一口たりとも食べることはできない。しかし・・・・・・。(「怨臭の彼方に」)

 確信。グロいもの、クドいもの、エゲツないものを描く時ほど人間は描写力を研ぎすます。せんだって飴村行について書いたときには、これは最近のホラー作家の描写力がすぐれているのだ、と思っていたけれど、よく考えればエドガー・アラン・ポーの昔から、これは真理ではないのか。
 このように始めたものの、田中啓文の描写力がとりたてて優れている、と言いたいのではない。むしろこの人の魅力は文章のリズム、というか間にあるだろう。たとえば関西弁でしゃべるキノコとホシ製薬の社長の会話、「やまだ道」のイタい少女と関西弁が板についた少女の会話のあいだは、どちらかというと無理のある説明文でつながれているだけなのだけれど、なんだかその間がいい。そしてこれだけじっくり間を取っているのに、すべてをダジャレで落としてしまう無理くりな感じに、落語の影響を見るのは容易だが、ここまでくると思うのは、人間は意味のないもの、どうせ最後には自分で壊してしまうものを作るとき、いちばん集中力を発揮するのではないか、ということだ。あえてミハイル・バフチンを援用するなら、ここにあるのはどちらかというとカーニバル性ではなく、壊されることを前提としたポリフォニーなのではないかと思う。最後のダジャレで音を立てて瓦解してしまう声の大伽藍は、むしろそのダジャレと不断の対話をつづけることによって成立しているのだ。
 この本、いろんな人に読んでほしいな、と思っているのだが、どうやって薦めたらいいのか、これほど迷う本は、ない。

(『蹴りたい田中』 ハヤカワ文庫JA 2004年)