21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

三好達治『詩を読む人のために』

 これは、いまあらためて読むべき本ではないかと思う。なによりも読んでいて楽しいのは、三好達治の毒舌ぶり。島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の、「千曲川いざよふ波の/岸近き宿にのぼりつ」を評して、「視覚的映像としては何だかとりとめがありません」とし、蒲原有明を語る段では、「即ちこの一篇の作詩には、それだけ知性の参加する分量が、例えば藤村の『千曲川』などに比べてみても、遥かに多分であっただろう」としながらも、その一段前の薄田泣菫にくらべれば、「その語彙語法に何かしら大づかみなところがあって、それだけ描写的要素をかくことになっています」と言ってしまう。もちろん、それぞれについてフォローはあるのだが、どれだけ偉大な先人であろうと、ブレない価値基準が毒舌を生んでいて心地よい。
 自分の視点からしてだいぶ先輩にあたる詩人を語ってこれであるから、時代的に近い詩人を言わせれば、もうすこし舌調がきびしい。「これ以上単純素朴な詩はありますまい。これはもう『文芸』というものでないかも知れません。これほど、『文芸』の心を、さまざまな『文芸』を生む心を、心そのまま、心だけで、裸に書きしるしたような作品は、恐らく類いが稀れでしょう。」千家元麿「母と子」について、そういうかと思えば、「次にかかげる佐藤惣之助の詩は、詩中の推移が急テンポで、歩ばやにどんどん進行してゆくそのせっかちな快速調に、ーーいささか出たとこ勝負の点はあるにしても、」というような記述もある。しかし、これら、悪口の部分を並べて読んでみると、三好達治にとっての詩作、あるいは「文芸」のひとつの要件に、視覚映像の構築力があるということが分かってくる。
 蒲原有明島崎藤村の詩情、思考をあいしながらも、絶賛ではなく一点の留保を持ち、反対に薄田泣菫のきわめて視覚的に繊細な詩については、この留保の部分がないことや、あるいは村山槐多、中川一政といった画家の詩作をおおきく取りあげていることでも、このことは伺える。つまりこの入門書は、「何を歌うか」よりも、「いかに歌うか」に重きを置いている人が書いた本なのである。
 最近、どうしても考えてしまうのは、小説論において、舞台や感覚を「作る」作業、または技術が十分に語られてきていないのではないか、ということなのだが、あらためてこの本を開けば、すくなくとも詩人というのはつねに造形を意識してきたのであると思い、すこし安心する。

(『詩を読む人のために』 岩波文庫、1991年 原著1952年)