21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

飴村行『粘膜戦士』 「柘榴」

不意に西側の庭で物音がした。靴底が地面を蹴るような音だった。昭の心臓が大きく鳴った。何者かがこの音を発しているのかもしれなかった。昭はベッドから下りると昇降式の窓に駆け寄りカーテンを引き開けた。外は月夜だった。青白い満月が夜空に浮かんでいた。昭は素早く目で庭を探った。その途端「あっ」と小さい声を上げた。庭に人が立っていた。距離にして十五メートルほどだった。淡い月光がその姿を青白く照らしていた。昭は目を凝らした。その人物は黒い外套を着て黒い頭巾を被っていた。顔は見えなかったが、いかつい体格から男だと分かった。男は両手を当てた腰をゆっくりと左右に回していた。昭はどくどくと脈打つ心音を聞きながら男を凝視した。なぜ体操をしているのか分からなかった。男はそのまま三分ほど腰を回し続けると、今度は膝の屈伸運動をまた三分ほど繰り返した。そして腹這いになって腕立て伏せを素早く五十回ほどすると、前庭に向かって足早に歩いていった。(146ページ)

 食べてはならない柘榴の木。古い洋館。地下室からきこえる少女の歌声。サーカス、そして柘榴の実をかじる死んだ母親の姿。比較的丹念に、ゴシック・ホラー風の世界を演出しながら、最後にこれ以上ないゲスさでぶち壊してしまう快感は、まるでモーパッサンの短篇を読むときに似る。(ちなみに、「比較的」と書いてしまったのは、たとえば金光大佐とベカやんの会話に比べて、会話があまりにショボいからだが)。「ていうか爬虫人が出ればなんでもアリなのか」、と思いながらも、この「柘榴」は名篇である。そして、生牡蠣って和食なのか、と思いながらも、このカタルシスには負ける。
 それはさておき、今回テーマとしたいのは、飴村行の文体である。前に、『粘膜蜥蜴』の戦闘シーンの躍動感と、多用される読点について書いたような気がするけれども、上にあげた引用部は、1段落に20もセンテンスがありながら、読点が3回しか使われていない。端的に動作だけを書いた短い文のつらなりは、場面に茫洋としたライトをあてている。ここで注目したいのは、むしろ3回登場し、このぼんやりした緊迫感に、そこはかとない間抜けさを与えている読点のほうである。たとえば「顔は見えなかったが、いかつい体格から男だと分かった」ではなく、「顔は見えなかった。いかつい体格から男だと分かった」でも、意味は通じるだろうし、むしろ緊迫感も増す。しかしながら、「、」があることによって、「○○して、××した」というような、「小学生の日記」感すら生じているのだ。
 これは間違いなく自覚的な所作である。飴村行は描写に優れた作家であるし、その描写力は文体への自覚から来ている。淡い照明のホラーの世界を維持しながら、読点は結末部のゲスさを予言しているのだ。現代の日本作家は、ぜひ飴村行に学んでほしい。依然として、この短篇の会話はダサいけれども。

(『粘膜戦士』 角川ホラー文庫 2012年)