21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

S.レム『高い城・文学エッセイ』「高い城」

私たちがこの世に生まれるとき、私たちを支配下に入れる二つの勢力、二つのカテゴリーのうち、空間はまだはるかに理解しやすい。もちろん空間も変化するが、その本質は単純だ。空間は時が経つにつれて縮む一方である。だから私たちのアパートの居住空間はゆっくりと小さくなり、イエズス会公園も、私が八年間通ったカロル・シャイノハ記念国立第二ギムナジウムの運動場も小さくなった。(中略)一方、われわれに敵対する要素、本当に悪賢く、人間の本質に反すると言ってもいい要素、それは時間である。まず何年もの間、私に並外れた困難を与えたのが、「明日」と「昨日」のような概念の区別だった。これまで一度も言ったことがないが、打ち明ければ、私はその二つを長い間、空間に位置づけていた。私は「明日」が次の階のように天井より上にあって、夜みんなが眠っている間に、しかるべき水準に沈むのだと思っていた。(1)

 ナボコフの『記憶よ、語れ』という本を読んだことがあるのだが、そのころ私はいまよりももっとバカであったらしく、内容をまったく覚えていない。スタニスワフ・レムの幼少年期を語った、自伝的小説である「高い城」をいま読んで、この本がひょっとすると「記憶よ、語れ」なのではないか、という幻想をいだいた。
 レムが記憶に語らせようとしているのは、時間が止まっている幼年時代の事物の肖像、あるいは宙吊りの状態で静止しながら、事物および人間に襲いかかろうとしている時間の物語である。感性豊かなレム少年は、時間によって人間が変化していくことを感じてはいるが、彼にとって死はまだ無縁のものだ。やがて、第二次世界大戦を経て、時間が容赦なく人間に襲いかかり、かわらないはずの無生物にすら雪崩のように新たな意味性を付与したのち、記憶は頑迷な倉庫番として作家の夢の中にとどまり、純粋に意識されるかたちでは過去を出庫してくれないくせに、作家の肉体と運命をともにしようとしている。
 この二律背反的な記憶への感情について思うとき、やはり、レムが本書の柱にしている、ふしぎな身分証明書の体系を読みとく必要があるだろう。ギムナジウムの優等生だったレムは、授業時間中の「内職」として、身分証明書の体系構築にいそしんでいた。それはある一定の(架空の)区域への入場を許すIDであり、時には宝石や権力といったものの提出/譲渡を命令するものだ。このときの「創作」を、レムはミケランジェロが神の像を描く芸術に喩える。すなわち、絶対的な「存在」からの制限、あくまで官僚的な身分証明書発行者としての自身の役割、に奉仕しながら、絶対的存在を感じさせる大伽藍を構築する行為として。また、同時並行的にレムが行っていた「発明」も重要である。永久機関モデル、独自設計の戦闘機械、作動しないラジオ。これらをむしろレムは20世紀美術にたとえる。つまり、かつて芸術が、絶対者の命令によって作成され、すべてにおいて有為であったことの名残として、実用するつもりでそうならなかった「役立たずの機械」を純粋表現と捉えるのだ。
 つまり記憶に語らせる、という行為は、幼少年時代の「純粋」へのあこがれ、と乱暴に言うこともできる。大人になるにつれて、事物は必要以上の意味と懐疑を獲得し、創作は不純かつ作為的なおこないとなる。(ここで、「20世紀には」と付け加えてもいいが、なんとなく行き過ぎの気もする)。記憶に語らせる、ということは、ものが純粋にものであった時期への憧憬なのだ。

スタニスワフ・レム コレクション『高い城・文学エッセイ』 芝田文乃ほか訳 国書刊行会 2004年)